【知の庭】諸藩見聞録

第30回 諸藩見聞録/[山口県:長州藩(萩藩)【後編】

周防、長門の2国に減封され、徳川憎しつのる

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毛利邸(現・毛利博物館)

 父親の隆元の急死によって、毛利家を継いだ毛利輝元は、それまで実質的に毛利家で力を持っていた祖父の元就も死去すると、一族の吉川元春、小早川隆景らの協力を得て、本格的に政権を掌握していく。

 輝元は、山中鹿之助らが尼子一族の残党を組織して挑んできた尼子勝久との戦いに勝利し、完全に中国地方を手中に収めた。しかし、今度は織田信長が毛利の敵として眼前に立ちはだかってくる。信長は天正8年(1580年)には羽柴秀吉を中国攻めの総大将にして、毛利軍に攻め寄せてきた。

 この攻撃で、播磨の三木城が長期に包囲されて開城させられ、因幡鳥取城も兵糧攻めで陥落させられる。また、西からは信長と通じた大友宗麟(おおとも・そうりん)が、山陰からも南条元続らが攻撃してきた。

 こうした中で、天正10年(1582年)、羽柴秀吉は備中高松城を攻撃する。毛利氏の忠臣だった城主の清水宗冶は切腹させられたが、織田軍との和解が成立する。この和解の背景には明智光秀が起こした本能寺の変があった。

 織田信長亡き後の覇権争いをにらんだ毛利輝元は、賤ケ岳の戦の後、秀吉を天下人と見定めて、戦勝祝いを贈って秀吉に接近する。そして、叔父にあたる毛利元総、従兄弟の吉川経言を人質に差し出す。

 それ以降、輝元は天正13年(1585年)の四国の長宗我部軍との戦いにも秀吉の命で参加、翌年の九州征伐でも先陣を受けて戦っている。こうした働きによって、秀吉からは長門、周防、安芸、出雲など120万5千石を処遇されている。また、前田利家らとともに五大老のひとりとして豊臣政権を支える位置につく。

 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、毛利輝元は安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の説得で、西軍の総大将として擁立され、大阪城に入る。しかし、輝元は9月15日の関ケ原の戦には、自らは出陣せず、一族の毛利秀元、吉川広家を出すにとどめた。石田光成軍が破れると、毛利輝元は、毛利秀元らの徹底抗戦論を拒否して、徳川家康に通告のうえで、大阪城を出た。

 一方、西軍の負けと見ていた一族の吉川広家は、黒田長政らを通じて、毛利家の本領安堵(ほんりょうあんど)と家名存続の交渉を家康と行っている。関ケ原の戦では、吉川軍が自ら盾になった格好で、毛利軍の進軍をとどめて徳川軍との直接の交戦を避けさせている。

 吉川の働きで、毛利の家名は残されたが、所領は周防、長門の2カ国に押し込められ、減封された。毛利としてはこの減封の厳しさは納得のいくものではなく、これが「徳川政権打倒」の気持ちを、江戸時代を通して長く毛利家に持続させ、明治維新につながったといえる。

 毛利輝元は剃髪(ていはつ)して幻庵宗瑞と称し、嫡男の秀就に家督を譲った。しかし、それは形式だけで、実際にはその後も事実上の藩主の地位にあった。輝元は関ケ原の敗戦後、日本海に面する萩に城を築き、居城としている。城は詰めの丸を指月山に造って、山すそに本丸、二の丸を設けている。この萩城は守りに徹した造りの城といわれ、毛利14代の居城となった。

 また、長州藩は藩校、明倫館を創設するなど学問に力を入れ、幕末には吉田松陰の私塾「松下村塾」で学んだ高杉晋作、久坂玄瑞ら多くの藩士が様々な分野で活躍し、討幕への力となった。

毛利博物館・毛利庭園

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毛利邸と庭園

 「毛利博物館」は、近代には華族の最高位である公爵の地位にあった旧萩(長州)藩主毛利氏の本邸を博物館として、長州藩主毛利家に伝来する美術工芸品・歴史資料約2万点を収蔵、公開している。これらの資料のうち、国宝が4件7点、重要文化財が約9千点。西日本有数の博物館として知られている。あわせて、国の文化財に指定されている庭園と屋敷も公開している。

 


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