【知の庭】諸藩見聞録

第29回 諸藩見聞録/山口県:長州藩(萩藩)【 前篇 】

毛利元就が尼子、大内氏らを破り中国での地位を確立

 中国地方で実権を握り、九州、四国にも勢力を拡大しようとした毛利氏は、鎌倉幕府の重臣であった大江広元の四男である大江季光を先祖とする一族といわれる。姓である「毛利」は大江季光が受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県厚木市の周辺)からきている。「毛利庄」はもともと「もり」のしょう、と呼ばれていたが、これが後に「もうり」となったとされる。

写真

紙本著色毛利元就像 毛利博物館所蔵

 南北朝時代にかけて、さらに勢力を広げ、安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)に入り国人領主としての地位を確保、そして戦国時代には中国地方の一大勢力となる。

 戦国時代に活躍し、毛利家の基礎を作ったのは毛利元就である。毛利元就は明応6年(1497年)に安芸の国人、毛利弘元の二男として生まれた。幼名は松寿丸。家督は長男の興元が継いだので、元就は猿懸(さるがけ)城主となったが、興元が亡くなり、その後を継いだ幸松丸も9歳で死んだことから、元就が毛利家の家督を受け継ぐことになる。  

 中国地方にはこのころ、山口に大内氏、出雲に尼子氏の巨大勢力があり、これを打ち破ってゆくには、毛利元就としてはまず足元の安芸、備後で支配力を強化していく必要があった。そこで元就は隆景を小早川家に、元春を吉川家に、それぞれ養子に出し、娘も近くの甲立城主の宍戸元源に嫁がせ、血縁での勢力の結集を図った。

 元就は厳島の合戦で、陶晴賢を破り、その勢いで、陶、大内の諸城を落としてゆく。これによって、毛利氏は中国地方の一大勢力の地位を得て、次いで念願だった、出雲の尼子攻めに総力を集中する。

 尼子氏はもともと出雲の国の守護であった京極氏の守護代をしてきた一族である。一時は山陰、山陽のほぼ十カ国を手中に収めていた。ところが、尼子氏の当主であった晴久の代に入りその勢力は陰りを見せ始め、その晴久も永禄3年(1560年)に亡くなった。後を継いだ、義久の代になって、毛利元就は尼子氏の本格的な攻めに着手する。 毛利元就は、北九州で勢力をもっていた大友宗麟(おおともそうりん)と通じ西からの心配を払拭して、尼子一族の城を次々に落としてゆく。そして、ついに山中鹿之助らが守る本城である月山富田城を取り囲む。月山城は食料を断たれて孤立して、永禄9年(1569年)落城する。

 大内、陶氏に次いで尼子氏も破ったことで毛利元就は中国地方で確固たる地位を占めることになる。 毛利家の表向きの当主としては、すでに弘冶3年(1557年)に元就が隠居して、その後は嫡男の隆元が継いでいたが、実質的な毛利家の主導権は隠居後も元就にあった。永禄6年(1566年)に隆元が急死、隆元の後はその嫡男である輝元が11歳で家督を継いでいる。しかし、若年であったこともあり、輝元の代にいたっても元就は実権を握っていた。 毛利元就は中国地方を制して後、九州、四国にも派兵して、さらにその勢力拡大に努めるが、元亀2年(1571年)、75歳で、安芸吉田郡山城で死去する。

 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.