【知の庭】諸藩見聞録
第28回 【青森県 弘前藩・後編】   本州最北端の雄藩として蝦夷に出兵 保
写真
誓願寺(国指定重要文化財/山門)
弘前城築城の際、城の西の守りとして慶長15年(1610)現在地に移転された。江戸中期頃に建てられた山門は、日本に1つだけという、こけら葺きの重層四脚門というもの。壁面には十二支が描かれ、鶴と亀の彫刻もあることから「鶴亀門」として親しまれている。
  本州最北端の雄藩として、弘前藩は盛岡藩とともに海を隔てた北海道の蝦夷蜂起への対応が重要な任務であった。
 寛文9年(1669年)に起こった蝦夷のアイヌの蜂起は、渋退(しぶちゃり・現在の北海道静内郡静内町の周辺)のアイヌの首長だったシャクシャインが、松前から来ていた商船を襲って、和人を殺害したことに端を発した。これに道央の南部のアイヌが呼応して、さらに和人を襲う広がりを見せた。この事件の背景にはアイヌの部族内の対立があったが、シャクシャインはアイヌを集結して松前藩の城下へ攻め込む勢いをみせた。
 このアイヌの動きは、松前藩とアイヌの戦いという事態を越えて、幕藩体制にも影響を与えかねない様相を呈してきた。
 このためアイヌ蜂起の報告を受けた幕府は、弘前、盛岡藩に出兵の準備を命じ、松前氏の一族の松前泰広を蝦夷に向かわせて指揮をとらせることになった。
 当時、弘前藩の藩主であった第4代津軽信政は、これに対応して、重臣の杉山吉成に兵を率いさせて蝦夷地に派遣、松前泰広の指揮下に置いた。蜂起は鎮圧され、幕府は弘前藩のこの素早い動きに対して、翌年の参勤交代を免除するとともに、兵糧米も支給した。

写真
長勝寺三門(国指定重要文化財)
大永6年(1526)建立、津軽家歴代のお墓と霊廟がある必見の寺。
写真
禅林街(国指定特別史跡)
弘前城築城の翌年、城を建てた2代藩主 信枚(のぶひら)が、津軽一円から曹洞宗の寺院(禅寺)を結集。禅寺が林のように並んでいることから禅林街と呼ばれるようになった。
写真
最勝院五重塔(国指定重要文化財)
津軽統一による戦で亡くなった人々を、敵味方の区別なく供養しようと3代藩主 信義(のぶよし)が着工、11年の歳月を経て4代藩主 信政(のぶまさ)により寛文7年(1667)完成。東北一の美塔と讃えられている。
  津軽信政は、第3代城主の信義を父に弘前城で生まれた。信義の死去に伴い明暦2年(1656年)に11歳で、叔父の津軽信英を後見役にその後を継いだ。信政は宝永7年(1710年)に65歳で弘前城で死去するまで、長期政権を保った。信英の勧めもあり、信政は山鹿素行に入門し、山鹿流の兵学や儒学を学んでいる。
 また、16歳の時には吉川惟足に師事して神道も修めている。
 信政は、蝦夷地への対応などのほか、津軽の新田開発に取り組むとともに、治水事業や植樹などの山林整備も行っていった。産業についても養蚕、製糸業などの育成に努めた。
 貞享元年(1684年)には領内の総検地をおこない、それに基づいて検地帳を整備した。幕末にいたるまでこの検地帳は弘前藩の徴租の基準となった。
 さらに、延宝9年(1681年)には、町人の作法の事、五人組の事などが盛り込まれた町人法度(「要記秘鑑」)を出した。町人の生活はこれによって細かく規制されることになる。また、文化面においても、文学、茶道、礼法などを広めた。

 このように信政によって津軽藩の基盤が整備されていったことから信政は 「 津軽藩の中興の祖 」 と呼ばれている。ただ、元禄8年(1695年)には津軽藩に大飢饉がおこり、3万人を超える死者が出るなど、信政の藩政にも晩年には次第に陰りが見えてきた。
 信政の治世末期には津軽藩は財政面でも苦しくなってきており、第6代信著(のぶあき)の時代に倹約令が出され、第7代の信寧(のぶやす)は乳井貢(にゅういみつぎ)を登用して本格的な藩政の改革に乗り出したが、藩内で物資が不足し、経済に混乱が生じるなど、改革は順調には進まなかった。

【写真提供】社団法人弘前観光コンベンション協会
 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.