【知の庭】諸藩見聞録
第27回 【青森県 弘前藩・前編】 為信が本州北端の津軽での地位を確保
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弘前城
鷹岡城、高岡城とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。江戸時代には弘前藩津軽氏の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。現在は弘前市が所有・管理する弘前公園(鷹揚公園)となっている。
  弘前藩の初代藩主となる津軽為信はもともと大浦氏と称して、南部氏の配下として父祖代々にわたり現在の青森県岩木町周辺にいた豪族であった。
 大浦一族は次第に勢力を広げて、戦国の動乱に乗じて天正16年(1588年)ころには南部氏から独立を実現し、津軽を支配するようになる。
 大浦一族は藤原氏の流れにあり、もともとは津軽を領地としていたという説もあり、それが事実とすれば、長年の夢を果たして戦国期に祖先の地の奪還に成功したということになる。
 南部支配から脱した為信は、豊臣秀吉の北条氏征伐を目指した小田原城攻めを察知すると、家臣団を率いて参戦し、天正18年(1590年)秀吉に謁見して、津軽の地を安堵される。また、大浦氏は上洛して京都で、血縁関係にあったとされる近衛家を訪ねて、「 杏葉牡丹 」 を家の紋とすることを許される。大浦から津軽氏に姓を変えたのはこのころである。

 為信は文禄3年(1594年)に居城も大浦から堀越に移す。そして、慶長3年(1598年)豊臣秀吉が亡くなり、その2年後には関ヶ原の戦いが起こる。為信は家臣2千人を率いて、徳川家康方について戦った。
 この論功行賞で本領の3万石に加えて、旧太閤蔵入地であった1万5千石を与えられる。さらに翌年には2千石を加増されて合わせて4万7千石の大名となる。これにより為信は津軽での地位を確固たるものとする。
 そして、為信は高岡に築城を決める。高岡は領地である津軽平野のほぼ中心に位置しており、立地的には絶好の場所であった。

 為信は高岡築城と同時に、城下の町つくりも進めていたが、慶長12年(1607年)に京都で客死してしまう。この結果、継嗣をめぐっての争いが起こるが、徳川幕府が裁定に入って、三男の信牧が藩主に決まり、このお家騒動以後は権力基盤が安定する。
 信牧は為信が決めた高岡の地に築城の工事を起こし、天守閣を有する城を慶長16年(1611年)に完成させ、同時に為信の着手していた町割りも進めて、城下町を完成させる。
 家臣団や商人らを集めて住まわせ、寺社は外郭に配置した。城の西北に、津軽家の菩提寺である曹洞宗の長勝寺があるが、その周辺に禅寺を置き、いわゆる出城の機能を持たせた。この方式は、「長勝寺構え」とも呼ばれる。その後、信牧は寛永5年(1628年)に高岡を弘前と改める。

 弘前藩の領地は本州のもっとも北に位置していたため、未開の原野が多かった。このため為信は新田開発を積極的に進めて、新田確保に努め、石高を増やすなど、藩の財政確保策をとった。一方、青森を開港して、東回航路での領米の江戸回漕ルートの確保に着手するなどの努力も行った。

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弘前城雪燈籠まつり(写真左)
「弘前城雪燈籠まつり」は、毎年2月に開催される「みちのく五大雪まつり」の一つ。弘前公園内に製作された約150基の武者絵をはめ込んだ雪燈籠が並び、また、弘前城本丸から望む蓮池のまわりには、約300基のミニカマクラ群が連なります。夜になると、それらすべてに灯が入れられ、幻想的な風景が広がります。
桜の名所、弘前城と公園(写真左)
園内には1903年(明治36年)以降、桜の植樹が行われ、現在では約2,600本。「日本さくら名所100選」にも選ばれている。東北地方北部に位置する弘前市は桜の開花時期が比較的遅く、ゴールデンウィークに行われる 「 弘前さくらまつり 」 には日本全国から大勢の観光客が訪れる。
【写真提供】社団法人弘前観光コンベンション協会
 


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