【知の庭】諸藩見聞録
第26回 【宮城県 仙台藩・後編】   東北の雄藩としての地位貫く
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仙台城跡
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(写真上2点)仙台・青葉まつり
藩政時代が起源とされる伝統の祭り。山鉾巡行や時代行列が初夏の仙台を彩る。伊達政宗公の命日(5月24日)にちなみ、毎年5月第三日曜日とその前日に開催される。
  伊達政宗は仙台城に居を移すと家臣団や藩の統治などの整備に取りかかった。家臣団については知行割を行い地方知行政をしいて整備した。また、未整備の土地を有力家臣に開発させて、石高の増量の道を探った。

 政宗は陸奥の守に任ぜられて、松平姓も賜って、徳川家との関係も深まってはいたが、幕府からは軍役など多大の出費を迫られて、荒地開墾による石高の増加策などを行なっても追いつかず、藩の財政は次第に窮迫の一途をたどっていたのが現実だった。
 政宗はこうした事態の打開策として諸外国との通商交渉を行うことを決め、メキシコ、イスパニア(スペイン)に藩士の支倉常長を送っている。だが、この窮余の策だった通商交渉は成立しなかった。また、鉱山開発など産業政策も積極的に展開したが、成果はあまりあがらなかった。

 政宗の死後、忠宗が家督を相続した。忠宗は家老の月番制や目付役などを創設して内部組織の確立に努めた。領内の総検地なども実施した。

 問題はこの忠宗の死後に跡を継いだ第19代綱宗の時代に起こる。綱宗は元服の際、4代将軍家綱に謁見して、「綱」の一字をもらったことから綱宗と名乗った。
 ところが、酒癖が悪く酒乱になる、というので忠宗の弟である兵部宗勝や綱宗の姉の夫である立花左近将監忠茂がいさめたことがある。また綱宗は、小石川堀の普請を受け、その現場を自ら回った際、新吉原の遊女屋に入って豪遊する。
 そうした行動が江戸幕府内に悪い印象を与えてしまった。老中(後に大老)の酒井雅楽頭忠清にも気づかれて、綱宗には不謹慎を理由に逼塞の命が下る。このため仙台藩に相続問題が浮上するが、このとき綱宗は二十一歳で、世継ぎ候補の亀千代(綱村)はわずか二歳だった。

  この伊達家相続問題に乗り出してきたのは酒井忠清である。仙台藩分割の危機に直面するが、このときには家老らの努力で、亀千代推挙でまとめられて落着した。
 しかしその後、この幼君亀千代の後見役になった兵部宗勝が酒井忠清の権勢を背景に権力を振るう結果となる。これをきっかけに勢力争いが表面化したのが伊達騒動である。

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大崎八幡宮
慶長12年(1607年)伊達政宗公によって造営された伊達家の守護神を祀る神社(国宝)。5月に行われる大崎八幡宮例大祭は、総黒漆塗の大神輿の巡幸に約500名が随従。仙台藩祖・伊達政宗公の雄大な気宇をも感じ取ることができる1年に1度の荘厳華麗な絵巻物。
  この伊達騒動は、結局酒井忠清邸に関係者が呼び出された際に、国家老の原田甲斐が抜刀して柴田外記らに斬りかかるという事態を引き起こす。
 その結果、宗勝が土佐藩にお預けになるなどの措置がとられたものの、伊達藩そのものはそのまま維持が許された。

  伊達騒動後、藩の体制は成長した綱村の手に次第に掌握されるようになった。そこで綱村は城下の運河を広げて商品の流通を活発にするなどの具体策を実施。鉱山の開発や、新田の開墾なども奨励して藩政の建て直しを実行した。
 綱村は1683年(元和3年)藩札を発行する。しかし、これが物価の高騰を引き起こして、隠居を余儀なくされる。

 綱村の後を継いだ吉村は厳しい節約令をとる。幕府の許しを得て 「 寛永通宝 」 の鋳銭事業を起こすなど産業の育成に努め、藩財政の建て直しを図る。
 その後も伊達藩には、米価の急騰や凶作による一揆なども起こったが、伊達家は、東北の雄藩としての地位は江戸時代を通して守り通した。  
【写真提供】仙台観光コンベンション教会
 


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