【知の庭】諸藩見聞録
第25回 【宮城県 仙台藩・前編】 伊達政宗が築いた日本有数の堅固な仙台城
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仙台城跡
  仙台城(青葉城)を居城として仙台に城下町を築き、君臨した伊達政宗は藤原氏の流れをくむ。初代は伊達朝宗で、鎌倉時代に源頼朝の平泉の征伐の際の軍功によって、陸奥国伊達郡をもらい、伊達と称したといわれる。その後も伊達氏は東北地方の南部を本拠として勢力を持った。伊達の地名はもともと「いだて」と呼ばれていたが、江戸時代には「だて」が定着している。

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(写真上)伊達政宗騎馬像
(写真下)仙台城跡
  伊達政宗は朝宗からは17代目にあたる。政宗は伊達家16代当主の輝宗が山形の米沢城主であったときに生まれた。「政宗」の名前は、伊達氏の中興の祖と伝わる室町時代の第9代当主、大善大夫政宗からとったといわれる。

 明智光秀の本能寺の変の後、天下を掌握した豊臣秀吉はその権威を背景に、諸国での私闘を禁じる惣無事令を発したが、伊達政宗はこの布令を無視してその領土の拡大を東北地方で図り、白川、石川、安積、岩瀬など仙道7郡を手中にした。だが、豊臣秀吉が小田原城に陣を構えた際に呼び出され、安積、岩瀬を没収された。

  この後、秀吉に服属した政宗は天正18年に秀吉に改易されて蜂起した葛西、大崎両氏を攻め、これを鎮定している。この功により政宗は秀吉に加増されたが、秀吉の命で、米沢から仙台の岩出山城に移された。

  関が原の戦いでは、伊達政宗は東軍の徳川家康方に参戦する。上杉景勝の支城である白石城を攻め、その一方で山形城主の最上氏に援軍を送った。この功で家康から加増され62万石となる。
  関が原の戦いのあと、次第に岩出山城が手狭になってきたことから政宗は、青葉山に新しく城を築くことを決め、この地を仙台と呼ぶことにした。仙台城は、広瀬川が巨大な堀の役目も果たす堅固な城である。政宗は山上の本丸に御殿を建造したが、天守閣は置かなかった。城下から城山を見上げると豪壮な御殿がそびえており、その上さらに天守閣は必要ないと考えたのだろうか。

  仙台城は、日本の城の中でもすぐれた山城であったため、やがて太平の世になると山上と麓との往来が不便となり、18代の伊達忠宗は早くも平坦な場所に二の丸を建造して使用するようにしている。

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仙台城跡(隅櫓)
  仙台城は1603年(慶長8年)に完成した。政宗は直ちに岩出山から城下町を仙台に移して町造りに入った。家臣団には知行割を実施して、上級家臣は知行地に城館を構えて家人らを住まわせ、地方知行制を確立していった。しかし、この制度の確立によって、家臣団の力が強まり、後の伊達騒動を引き起こす要因を作ったのでは、という見方もある。

  いずれにしても、この仙台城が築城から、江戸時代を通して、約270年に渡って伊達氏の居城となる。  
【写真提供】仙台観光コンベンション教会
 


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