【知の庭】諸藩見聞録
第24回  【 三重県 藤堂藩(伊賀上野・津)・後編 】        
津城は政務の拠点、伊賀上野城は軍事上の狙い
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伊賀上野城
当時の内堀と石垣、昭和10年に復興された木造三層の天守閣がある。城内には藤堂藩ゆかりの武具や文化産業資料が展示されている。
   藤堂高虎は、津城に入った後、慶長16年に津と伊賀上野のそれぞれの城の改築に着手した。その際二つの城の性格を明確にした。津は政務を行う拠点とし、伊賀上野は軍事的拠点との位置付けで改築を実行した。従って、軍事的目的で造られた伊賀上野城は石垣の高さが30メートルもあり、大阪城の二の丸とその高さを競っている。北に服部川があり、南から西には木津川が流れていて、大阪方面からの攻撃に対する構えとなっている。
  津城の城下造りは、伊勢の参宮街道を城下町に引き入れて町の区画を定めている。また、伊賀上野についても、三筋町などの町割をして、城下を整備していった。加藤清正と同様に高虎も城造りの巧者として知られており、丹波篠山城、丹波亀山城の普請などを行っている。

 藤堂高虎については、主君を何度も変えたことからの批判はあるものの、厳しい戦国時代を生きてきた武将として、その実力を評価する見方が強い。
 関が原では西方の大谷吉継らの主力部隊と戦い、大坂夏の陣では士気が高かった長宗我部盛親の部隊との死闘を繰り広げ、犠牲者も多く出した高虎を、徳川家康も高く評価した。
 こんな話が残っている。藤堂高虎が 「 後継ぎの高次は不肖の子ゆえに、自分が死んだ場合は直ちに国替えをしていただいて結構です 」 と、老中の土井利勝に伝えたのを聞いた徳川家康は、「 育ててきた家来衆もいることよ。わが家が続く限り、伊勢、伊賀は藤堂家のものよ 」 と、高虎に伝えたという。6尺2寸の大男で、体中戦場での傷だらけだったと伝えられる高虎への、家康の信頼の強さを表している。実際、藤堂家は外様だったが、江戸幕府の中では重要な位置付けにあったといわれる。

  高虎は戦場ばかりではなく、慶長13年(1608年)に津城に入った、その年のうちに 「 法度21か条 」 を定めるなど内政への意欲も示している。この法度は、「 百姓に10人組みを組織させ判形をつかせて届ける 」 「 年貢未納は、理由により庄屋、百姓を人質とする 」 「 妙な感じの牢人者は知らせること 」 などを盛り込んでおり、これを郷の支配責任者に指示する形で徹底を図っていった。
 藤堂高虎の津、伊賀上野入りは、西方ににらみを聞かせる軍団としての役割が期待されていたために、何よりも年貢米を確保して力をつけていくことを意図している。しかし、新領主が入ってきた場合、土豪や百姓の抵抗が必ず起こってくる。そのため、こうした法度の実行という形で、支配を強めていこうとした。こうして、高虎の時代に城郭の普請をはじめ城下町の建設、家臣団の編成、そして領地制度などの基礎が築かれていった。  
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上野天神秋祭(写真左)
400年余りの歴史を有する関西秋の三大祭の一つ。毎年10月下旬に城下町を彩る華やかな祭。豪華絢爛な九基のだんじりをはじめ、百数十体の鬼が練り歩く疫病退散の鬼行列などが行われる。(国指定重要無形民俗文化財)
伊賀流忍者博物館 (写真右)
忍者屋敷・忍術体験館・忍者伝承館の3施設と忍者が実演する「忍術体験広場」(別料金)・忍者オリジナルグッズを販売する「NINJA坊」がある。
【写真提供】 社団法人三重県観光連盟
 


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