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関東の江戸に位置して西の要所、大阪城をにらむ徳川家康にとって、伊賀上野と伊勢の津(当時は安濃津)は戦略的に極めて重要な位置にあった。伊賀上野は京都、大阪、堺に近く、そして津は伊勢の海上から京都、大阪、堺につながってゆく要所である。
そこで、家康は伊賀上野と津をひとつに合わせて、信頼のできる武将、藤堂高虎にその守りを任せるという決断をしたとみられる。高虎は慶長13年(1608年)に新生の津藩主として入る。
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津城跡にある藤堂高虎公の像
(滋賀県に生まれた高虎は、慶長13年(1608)に伊賀上野・津32万3千石の大大名となった。高虎は津に入ると荒廃した町の再興に努めた。
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津藩の城主となった籐堂高虎は藤堂村(現在の滋賀県犬上郡高良町)に生まれた。父は藤堂虎高である。成長して浅井長政に仕えて、元亀元年(1570年)の織田・徳川連合軍との姉川の戦いでは戦功を上げた。その後、羽柴秀長(豊臣秀長)のもとで、賎ヶ岳(しずがたけ)の戦いでも群を抜いた戦功をたてて加増されている。
さらに、藤堂高虎は紀伊の雑賀攻めや九州の島津攻めにも参戦して、実力を示している。
高虎は、秀長の死去によってその養子の羽柴秀保に仕えるが、秀保も早世したため、出家して高野山に入る。しかし、高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉によって呼び戻され、伊予の宇和島を与えられている。
豊臣秀吉の死後、藤堂高虎は徳川家康に接近した。これは家康の聚楽第(じゅらくだい)内邸地の普請がきっかけになったといわれる。高虎の弟にあたる正高を家康に人質として出し、石田三成側の情勢を家康に伝えたりもしている。
また、慶長5年(1600年)に関が原の戦いが起きると藤堂高虎は、小早川秀秋の監視をしつつ、寝返った秀秋を討つ作戦を展開する。
結局、戦は秀秋に加え大谷吉継との戦いともなり、西軍の主力戦闘部隊との死闘の様相を呈する。しかし、高虎はこの戦いに勝利して、家康からその実力を認められ、加増されて伊予今治20万石の城主となったのである。
そして、関が原から8年後、高虎は西方への備えを考えた家康によって新生、津藩の初代城主となる。
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津城跡
織田信包(信長の弟)が天正8年(1580)に津城を創築。藤堂高虎が四国伊予の今治(愛媛県)から移封、 慶長16年(1611)に大規模な改修を行い、城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、伊予から連れてきた町人たちを岩田川の南に住まわせて、 伊予町をつくった。さらに高虎は、参宮街道を城下に引き入れたり、城の東に堀川を切り開いたりして津の基礎づくりを行った。 2代藩主高次はそれをもとに城下を整備、明治維新まで津は32万石の城下町として栄えた。 |
高虎が城主になる前は、伊賀上野は筒井定次、津は富田信高が治めていた。しかし、伊賀上野の筒井氏は家臣統制の乱れを理由として改易処分を受け、津の富田氏は加増の上で伊予宇和島に移された。
富田信高は石田三成を嫌い、家康に早くから従っている。家康の会津攻めにも従軍した。また、信高は西軍の毛利秀元、吉川広家らの大群が津城を包囲した際も、果敢に戦っている。家康もこうした実績から信高を認めつつも、藤堂高虎の方を要所の伊賀上野、津の守りとして選んだようだ。
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