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国内旅行
諸藩見聞録
第22回  【 徳島県 徳島藩 ・後編  】    
塩田、藍玉を軸に藩の産業政策を推進
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新町川水際公園(徳島市)
水の都・徳島のシンボルである新町川沿いに平成元年8月に完成した公園。ボードウォーク、満ち潮水族館などもあり、休日にはいろいろなイベント開催場所として賑わう。夜のイルミネーションも美しい。
 蜂須賀家の初代藩主である家政は天正14年(1584年)に、阿波の吉野川、鮎喰川、園瀬川の複合デルタ地帯にあたる、現在の徳島に徳島城を築城して入城、城下町の構築に着手した。そして、吉野川の分流の新町川などを利用、自然の濠として使うなど城下の形成を行っていった。

  家政は内政面では、藩内の要所のそれぞれに支城を配置して、そこに家臣の家老らを城番として置き、治めさせていく政策をとった。また、第2代藩主の至鎮(よししげ)は藩政の規範とする 「 御壁書二十三箇条 」 を定めるなど、藩政に積極的に努めた。
 ところが、家政の時代からの城番制度が、第3代藩主の忠英(ただてる)の時に蜂須賀家を揺るがすような問題を引き起こすことになった。

 第2代藩主の至鎮((よししげ)が35歳で死去したため、忠英は10歳という若さで藩主になっている。このため、この事件が起こった時は、隠居中の初代藩主、家政が後見人として忠英の政務を見ていた。
 ことの発端は、城番制度である。この制度によって、農村を知行地として城番をつとめる家老たちが、次第にそれぞれの地で権力を持ち始め、いわゆる領主化をしてくるようになってきていた。このため忠英の代に入り、徳島藩は藩政改革の一環としてこの城番制度を廃止して、再編する政策をとろうとした。

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海部川(海陽町)
清流・海部川は川魚の宝庫 。6月には多くの人が鮎釣りに訪れる。その上流には日本の滝百選のひとつ四国一の大滝「轟の滝」と連続して大小さまざまな滝があり、総称して「轟九十九滝」と呼ばれている。
  ところが、この改革に反発するものが出てきた。城番を勤めていたうちの一人で、海部郡内で7500石を支配していた益田豊後長行である。長行は幕府の老中に賄賂を贈って自分が城番を勤めていた海部郡の分藩を狙った。このため長行は海部川流域の木材を藩の許可を得ずに伐採して賄賂のために資金化している。

 この事件で、長行は知行地として与えられていた海部を没収され、幽閉されることになった。しかし、長行は藩が禁制の大船を建造しているなどの訴状を幕府に逆に出したりして、さらに混乱を引き起こした。
 徳島藩の潔白は証明されたが、結局、長行は江戸藩邸で処刑され、益田家は断絶することになる。この事件を契機に、徳島藩は体制を整備して、門閥から官僚を中心とする形に組織を変えていった。これが、徳島藩の海部騒動である。

  蜂須賀家は産業政策にも力を入れた。家政は塩田に眼をつけ、現在の鳴門市にあたる撫養(むや)の海岸に大きな塩田を開発した。播州赤穂の塩田に次ぐものである。その後、塩方代官所制度を設けて、藩は塩租を徴収するようになった。
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藍の館(板野郡藍住町)
大藍商であった旧奥村家屋敷が寄贈され、その建造物とともに阿波藍の歴史が展示されている。
   もう一つの主要産業として成長したのは、藍玉の製造である。徳島藩はこの藍玉製造に藩の専売制度を設けて、その後徳島藩外への販売は藩が一手に扱うようにした。藍玉にも税が課せられたが、宝暦6年(1756年)の凶作の際には、困窮した藍作農民が藍玉税の廃止を求めて一揆を計画して、処刑された。その後も藍玉にかかる租税では何度か問題が発生している。

  教育面では、第10代の藩主、蜂須賀重喜が、明和改革の柱として藩校の設立を期したが実現せず、第11代藩主の治昭の時に、城下の寺島に学問所が開かれる。さらに、安政3年(1856年)には江戸藩邸に長久館が置かれ、本草学者の小原春造が創設にあたった医師学問所も完成した。