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国内旅行
諸藩見聞録
第21回  【 徳島県 徳島藩 ・前編  】  
蜂須賀家が、播磨の龍野から徳島城主に
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徳島城博物館
徳島城跡公園(旧徳島藩主蜂須賀公の居城跡)にあり、阿波藩藩主、蜂須賀家の様々な宝物などの展示及び企画展示が行われている。
 土佐から発して、長宗我部元親(ちょうそがべ・もとちか)は天正13年(1585年)の春にようやく伊予の平定を終え、四国を統一した。しかし、元親はその勝利に浸る間もなく豊臣秀吉軍との厳しい戦いに直面し、秀吉に敗れる。
 この秀吉の四国平定の際の戦功によって、播磨龍野(兵庫県龍野市)の城主だった蜂須賀家政(はちすか・ いえまさ)が秀吉から阿波の国を与えられて、蜂須賀家の阿波支配が始まる。

  蜂須賀氏はもともと尾張の海東郡の国人で、家政の父の正勝は、美濃の斎藤道三につかえていたが、その後秀吉の家臣となっている。正勝の浪人時代に、秀吉の下で小六を名乗り、美濃の墨俣の一夜城を築いたなどの説があるが、これは定かではない。

 正勝は秀吉の中国攻めでは、参謀格の仕事を努めて、いわゆる「秀吉の大返し」で活躍したといわれる。天正13年に阿波の国を秀吉から与えられることになったが、これを嫡男の家政に譲って、正勝本人は秀吉の側近としての生涯の方を選んでいる。

 徳島蜂須賀家の開祖となる家政も正勝とともに秀吉に仕えた。中国攻め、紀伊の雑賀衆との戦いにも参加している。長宗我部元親との四国攻めの際には、阿波の木津城、一宮城などで戦功をあげた。

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徳島城跡公園
JR徳島駅から徒歩約10分 。旧徳島藩主蜂須賀公の居城跡が明治43年に公園として開設。平成元年に市制100周年を記念して篤志家の寄贈により「鷲の門」が復元され、続いて数寄屋橋を木橋にかけかえ、徳島城博物館の開館により城跡公園として整備された。
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旧徳島城表御殿庭園
国指定の名勝であるこの庭園は、旧徳島藩主蜂須賀公の居間や表書院の庭として作られたもの。上田主水(宗箇)作の桃山時代風の名園で、枯山水庭と築山泉水庭の二つの庭が、観賞式と池泉廻遊式を兼ね具えている。
  蜂須賀家政は阿波では、最初に一宮城に入ったが、その後現在の場所に徳島城を築いた。この地はもともと室町時代に細川頼之が城を造った所でもあった。この徳島城の完成を祝って城下に 「 好きに踊ってよい 」 との触れが出されて、これが阿波踊りの発祥となったという説もある。
 また、家政は太閤検地を領内で実施して、領地を固める。さらに兵と農民との分離政策も実行して、藩の支配体制固めに力を入れていった。 一方、朝鮮半島での、文禄・慶長の役のいずれにも参加している。特に、慶長2年(1597年)の際には、浅野幸長の救出作戦で活躍した。しかし、この戦いを戦線の縮小を考えていた石田三成らに戦略の逆行として、批判されている。

 豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に没して、五大老の一人、前田利家もその翌年に死去、時代は関ヶ原へとなだれ込む。
 天下分け目の関ヶ原の戦で、家政は阿波の領地を豊臣秀頼に返上する。そうして自分は出家、蓬庵と号して高野山に入り、中立の形をとった。しかし、嫡男の至鎮(よししげ)には兵を預けて東軍の徳川家康に参加させている。  この結果、家康から関ヶ原の戦の後、改めて阿波の国が至鎮に与えられて、徳川政権下の徳島藩がスタートする。
 その後、蜂須賀至鎮は大坂の陣で活躍し、淡路国一国が加増され、蜂須賀家は25万7千石の大名となる。
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徳島城跡公園内にある鷲の門(左) と数寄屋橋(右)