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国内旅行
諸藩見聞録
第18回  【 熊本県 肥後藩 ・後編  】加藤家に代わって、細川家が肥後の藩主に
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  毎年8月第2金・土曜日に行われる「火の国まつり」に加え、「熊本城築城400年」を迎え、今年は一層にぎわいを見せている熊本の城下。
   
  肥後の領地を召し上げられた加藤家に代わって熊本に入ったのは、小倉藩主の細川忠利だった。細川家は清和源氏の流れをくむといわれる古い家柄である。室町時代後期に頭角を現してきた細川幽斎(藤孝)は室町将軍家につかえた。その後は織田信長に恭順の姿勢を示し、山城の国桂川西 (現在の長岡京市、日向市あたり) 一帯を与えられた。細川幽斎は明智光秀に近かったが、本能寺の変の際には光秀の誘いを断り、剃髪して幽斎玄旨と号した。

 幽斎の後を継いだ細川忠興は豊臣秀吉につかえ、九州征伐や朝鮮出兵にも参加、関が原の戦いでは、加藤清正、福島正則らとともに徳川家康の東軍につき、石田三成と戦った。細川忠興は東軍に参加する意向を早く伝えたために、大阪に人質の形で留め置かれていた夫人の細川ガラシャが石田三成方の襲撃を受けて包囲され、亡くなるという悲劇を呼んでいる。
 忠興は、関が原で、石田三成隊と激しく戦い、西軍を勝利に導いたという功績で、慶長7年 (1602年)、豊前小倉藩を与えられた。忠興の後を継いだのは忠利である。
 
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  写真は2点とも「水前寺成趣園(通称・水前寺公園)」。熊本藩主細川家が造園した歴史ある日本庭園として知られている。
   
  寛永9年(1632年)加藤氏改易の後を受けて、細川忠利は肥後熊本城に入った。細川家には上卿三家と称して、世襲制の家老が置かれており、松井氏、米田氏、有吉氏の三家だった。いずれも幽斎の時代からの重臣で、松井氏は八代城代をつとめて実質上の八代支藩の藩主的存在だった。

  加藤清正は直接政治を好んだとされるが、細川藩は家老の合議制を採用するなど柔軟な支配体制を敷いた。慶安二年 (1649年) に三代綱利が7歳で藩主になった。この際に肥後の国の二分案が出たが、小倉藩主の小笠原忠真の後見を得ることでおさまった。ただ、綱利は19歳まで国入りが許されず、藩政は家老による合議制で遂行された。綱利は四代宣紀に家督を譲るまで藩主の座にあり、回遊式庭園である水前寺の成趣園を造ったり、文化事業に力を入れた。

 幽斎が育てた重臣による藩運営は悲劇も呼んでいる。細川忠利の死に際して、殉死問題が起きた。殉死が許されるべき立場であったにもかかわらず、許されなかった阿部弥一右衛門は、命を惜しんでいるように見られているのを憂いて切腹する。しかし、一族は殉死者の遺族としては扱ってもらえない。結局、阿部一族は屋敷に討手を迎え、全滅する。 『 阿部一族 』 の書名で、森鴎外が小説にした悲劇が細川時代には起こっている。

  変わった食べ物が、細川家には残っている。からし蓮根がそのひとつで、蓮根の穴に和辛子を混ぜた麦味噌を詰めて、これに卵の黄身などの衣 をつけ、菜種油で揚げたものだ。加藤清正の時代に蓮根を非常食用に城の外堀に植えていた。これに辛子を詰めて揚げ、細川忠利に差し出した ら、喜ばれて、江戸時代は門外不出の細川家の料理とされ、伝わったそうだ。蓮根を輪切りにすると、細川家の九曜紋に似ていたことも細川家で 大切にされた理由のひとつであるという。
【写真提供】熊本国際観光コンベンション協会