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国内旅行
諸藩見聞録
第17回  【 熊本県 肥後藩 ・前編  】   加藤清正、近世の名城熊本城を築く
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1607年、茶臼山と呼ばれた丘陵地に加藤清正が当時の最先端の技術と労力を投じた名城熊本城。今年、築城400年を迎え、さまざまなイベントが行われている。

  政権を中央で確保した豊臣秀吉は天正15年(1587年)九州征討に着手し、島津を軍門に降した。そして、天草、球磨郡を除く肥後を佐々成政に与えた。
 ところが、肥後は国人、あるいは国侍と呼ばれる封建領主の抵抗が強く、結局、秀吉が近隣領主の協力を得てこれを鎮圧することになった。佐々成政はこの責任を問われて切腹させられる。
 肥後の国は、天正16年 (1588年)、秀吉によって二分され、北半分の玉名、山鹿、山本、飽田、詫麻、菊池、合志、阿蘇、葦北が加藤清正に与えられることになった。また、残る宇土、益城、八代は小西行長の所領となった。球磨は引き続き相良領とされる。
 天草はその地の豪族5人衆にゆだねられたが、その後、小西領に組み込まれることになった。

 慶長5年 (1600年) の関ヶ原の役で肥後の姿は大きく変わることになる。加藤清正は徳川家康の東軍として出陣、小西行長は西軍となった。この戦で、加藤清正は行長の宇土城を攻撃して陥落させた。小西家は滅亡して、その所領は加藤家に属すことになった。
  球磨郡を除く、肥後加藤家の所領は慶長9年 (1604年) の検地で、54万石と確定した。
 
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  熊本城天守閣。
   
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  (左)巧みに積み上げられた石垣の上にどっしりと構える天守閣。/(右)見事な石垣は外敵からの侵入を防ぐ“武者返し”の手法を用いた。
   
  築城にかけては、名人ともいわれた加藤清正は慶長12年 (1607年)、熊本城 (隈本城) の建て替えを実行した。外敵からの攻めに対する武者返しなどを備え、「 雄城 」 といわれる近世的城に生まれ変わった。熊本城は姫路城、名古屋城とともに日本三大名城の一角とされる。
 また、肥後は薩摩の島津氏に備えることを理由に、八代城の維持を許され、「 一国一城令 」 の例外とされた。

 加藤清正は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)に参加、武勇を立てた事でも知られている。朝鮮半島での虎退治などのエピソードも残っている。

  加藤清正は慶長16年 (1611年) に没する。このためわずか10歳の忠広が相続することになった。そして、元和1年 (1615年) の大坂夏の陣で豊臣家が滅び、若い領主を抱く肥後藩の藩内に動揺が走った。元和4年 (1618年) には重臣間の争いが生まれ、崩壊への流れとなってしまう。徳川秀忠の裁断で派閥抗争はいったんはおさまったものの、秀忠の死後、駿河大納言忠長事件に絡む陰謀の疑いを理由に、加藤家は領地召し上げの上、忠広は出羽国の庄内に流される。
 この加藤家断絶への流れについては、陰謀説のほか加藤家の領国統治の脆弱さを幕府が危惧しての裁断など、他にも説がある。
 この結果、肥後の地には北九州の小倉城主だった細川忠利が入り、加藤家の領地を受け継ぐことになる。細川家は明治維新まで十一代にわたって続く。
【写真提供】熊本国際観光コンベンション協会