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国内旅行
諸藩見聞録
第15回  【 愛媛県 松山藩 ・前編  】    松山城は定行の時代に堅固な3層の天守閣に改築
 
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  国の重要文化財「松山城」。門櫓(もんやぐら)・塀を多数備え、鉄砲・弓や石落とし、高石垣などを巧に配した攻守の機能に優れた日本でも有数の連立式平山城。
   
 松山城を造った加藤嘉明は豊臣秀吉が織田信長の家臣団の筆頭格、柴田勝家を琵琶湖北端の賎ヶ岳付近で攻めた、賎ヶ岳の戦いに参加した七本槍の一人。その戦功などで松山を与えられた。加藤嘉明は関ヶ原の戦いでも東軍につき、加増されている。
 その後、加藤嘉明は陸奥国の会津藩に加増して、転封される。加藤家の後の松山には、出羽国の上山藩から蒲生忠知が入るが、嗣子なく死亡、蒲生家は断絶してしまった。

 このため寛永12年(1635年)に、伊勢の国の桑名藩から松平(久松)定行が松山城主として入り、以降松平家がこの地を治めることになる。
 松平家の先祖である久松俊勝の夫人であった於大の方(伝通院)は、徳川家康の生母にあたる。久松家は徳川一門として松平の姓をもらっており、中国、四国地方の外様大名のお目付け役的位置にあった。
 
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  松山城「一ノ門」。本壇入口の虎口(こぐち)に西面して建つ最初の門。
   
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  松山城「乾櫓」。この櫓は、北麓の北の郭からの登城道が本丸に達する要地に築造され、乾門続櫓とともに搦手(からめて)を防衛する重要な構えである。
   
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  松山城「野原櫓」。この櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、加藤嘉明が慶長年間(1596〜1614)に築城した当時に新しく建築した建物と伝えられる。本城最古の建物で、豪放な木割り、礫(れき)詰めの太鼓壁、化粧屋根裏などの構造と、石落し・狭間(さま)の備えを含め、築城当初の面影をよく留める貴重な建物である。
   
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  松山城二之丸史跡庭園。表御殿跡と奥御殿跡に大別される。 発掘によって、その規模や大きさが注目された大井戸遺構は、そのまま露出展示されている。
   
 松山城は加藤嘉明が築城に着手したものだが、地盤の弱い山頂にあることから、松平定行はその改築に着手、五層から堅固な三層の天守閣にし、27の城櫓も固めた。道後温泉の諸施設の補充にも努めて浴場なども整備した。しかし、この天守閣は天明4年(1784年)に落雷が原因で焼け落ちる。そして、この城郭全部が完成したのは嘉永5年(1852年)であった。
 また、定行はお茶の栽培や松山が魚港であることから、白魚を放流したり、殖産にも力を入れた。
 儒学や俳諧などの文化の流れを松山に芽生えさせたのは、4代藩主の定直である。元禄時代に入り、定直は学問に力をいれた。

  一方、藩の財政が相次ぐ天災により、窮迫しはじめた。五代の定英の時代、享保17年(1732年)には西日本一帯で春先から天候不順が続いた。麦が不作となり、旱魃で稲も凶作となった。さらにうんかが大量に発生して、雑草までも食い荒らされた。この飢饉で領内に餓死者が大量に出た。ところがこの餓死者の中に領内の藩士が入っていなかったことや、餓死者の数が全国に比して多かったことなどから、定英は 「 裁許不行届 」 として、謹慎処分を幕府から受けている。

  また、寛保元年(1741年)には、久万山地域で凶作に苦しんだ良民が隣の大洲藩に逃げ込んでしまうという事態が発生した。困った松山藩は彼らの要望を聞いたうえで、帰村させるという措置をとった。家老ら責任者は処罰された。
 定直の時代に萌芽した伊予俳諧は安永年間に入り一般にも広まり、さらに明治に入って、松山出身の正岡子規らが出て全盛期を迎える。

  幕末では、一貫して幕府側につく。そして、鳥羽・伏見の戦いは松山藩は朝敵として、追討される。だが、財政難ではあったが、15万両を朝廷に差し出すなどして、恭順の意を示したことなどにより、許された。しかし、松山城には、土佐藩兵が入場して武器庫は封印され、土佐藩兵は長期に駐留した。また、明治政府からは松平の姓を旧姓である 「 久松 」 に戻すよう、命が出た。
【写真提供】(財)松山観光コンベンション協会