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国内旅行
諸藩見聞録
第13回  【 岩手県・盛岡藩(南部藩)・前編 】    北上、中津川の流域に盛岡城を築く
不來方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心

              
「一握の砂」より  
 『 悲しき玩具 』 や 『 雲は天才である 』 などで知られる、岩手県出身の石川啄木が詠んだ歌である。この歌に登場する 「 不來方(こずかた)」 が、初代の南部藩主である南部信直が盛岡城の築城を決めた土地だ。
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  盛岡城築城にあたって、 北上川・中津川・雫石川の合流点で低湿地帯だった盛岡は、付近一帯の治水が重要な課題であった。 その一つが現在「高松の池」(写真)になっている沢の治水で、この沢が出水すると、 安全な町づくりに重大な支障があった。 そこで、高松の池のあるあたりに4ヵ所の堤を設けたのが始まりといわれている。 そのため、高松の池はかつては「上田の堤」と呼ばれていた。盛岡城下の開発は、 高松の池造成によって大きく進展したといえる。 「高松の池」は現在、市立公園として市民の憩いの場になっている。
   
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  盛岡を代表する見所の岩手公園。東北三大城跡のひとつに数えられる盛岡城跡。今は市民の憩いの場所となっている。
   
 不來方は岩手の主要河川である北上川、中津川などが合流する天然の要害だった。しかも、花崗岩台地である。北上川は大きく蛇行し、暴れ川といわれていたが、河川に強い事業家臣を抱えていた豊臣秀吉の助けを借りて築城を行い、近江商人を呼ぶなど城下町の形成も展開していった。


  南部氏は、盛岡からは遥かに離れた甲斐の地(山梨県南部町)にもともといたが、源頼朝の命で奥州に移り、青森県から岩手県西部に勢力を広めていっていた。南部信直は田子城主南部高信の嫡男だったが、南部宗家の南部晴政の養子に入る。
 南部信直は、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに前田利家と通じて加わり、秀吉の信頼を得る。この結果、所領を安堵され、九戸城(岩手県二戸市)を経て不來方への築城を始める。


  南部一族は南北朝の時代から剛毅な騎馬軍団として知られる。また、秀吉の信頼を得たのには九戸政実が信直の配下に入ることを拒否して起こした 「 九戸の乱 」 の際、秀吉の指示に従い、その救援のために向かっていた浅野軍の危機を花巻で救ったこともその理由の一つ、といわれる。
 慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の役では、最上義光に加勢、その後、稗貫、和賀の一揆もおさめて、南部氏は安泰となった。


  盛岡城は初代の信直が築城に着手したが、その子利直を経て、三代目重直の時代に完成した。それまでに三十年以上が経過している。
 
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  盛岡市の無形民俗文化財に指定されている「盛岡八幡宮祭り」の山車行事は1709年(宝永6)9月14日、南部藩の街造りが完成したのを祝い、全町の若衆がそれぞれ趣向をこらした「丁印(ちょうじるし)」を、八幡宮に奉納して3日間城下目抜き通りを練り歩いたのが始まりと伝えられている。丁印は町のシンボルという意味で、盛岡城下各町の消防、自治的組織の標識であった。
   
 南部藩の諸制度は、信直の後の利直、重直、重信によって、ほぼ固められてゆく。利直は在地性の強い旧領主層の力を薄めつつ家臣との間の関係強化に努めてゆく。重直は個性の強い人物だったといわれ、藩主の権力強化を図ることを狙い、新しい家臣を抱えた。
 継嗣に恵まれなかった重直は弟の重信を藩主とする。重信は新田開発や地検の実施など藩政に積極的に取り組んだ。
 南部藩独自の 「 代官統治区域 」 を設置、領内を三十三の 「通 」 に分けて、総検地を行い、これをさらに整理統合していくという手法がとられた。
 ただ、盛岡は飢饉が多く起こった。中でも元禄、宝暦、天明、天保の四大飢饉は被害が大きく、藩の財政を圧迫、百姓一揆が続いた。


  沿岸部の野田通、宮古通、大槌通の三閉伊地方で弘化四年(1847年)、嘉永6年(1853年)に起こった 「 南部三閉伊一揆 」(なんぶさんへいいっき) は激しかったことで知られる。
写真提供:(財)盛岡観光コンベンション協会