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国内旅行
諸藩見聞録
第10回  【 加賀藩(石川県)・前編 】信長、秀吉、家康の波乱の時代を生き抜く
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  金沢城は長く加賀前田家の居城だった。文化都市金沢にふさわしく、城を取まく雰囲気もよく、四季の花が咲いている。(写真は金沢城石川門・夏・菖蒲)
   
 美しい花や草模様の加賀友禅を流す犀川、浅野川に挟まれた金沢平野に広がる加賀藩は日本海に面した雄藩だ。江戸時代は外様大名だったが、徳川将軍家と姻戚関係が濃く、尾張、紀州、水戸の後三家に次ぐ実力を持っていたといわれる。領地も加賀、能登、越中の三カ国で、石高も百万石を超えていた。

 初代の加賀藩主になった前田利家は天正9年(1581年)織田信長から能登の国一円を与えられている。天正10年に信長が討たれた本能寺の変の時は、柴田勝家に従い、織田家の後継者を決める清洲会議でも勝家側についたが、利家は秀吉にも近く、賎ヶ岳の戦いでは、勝家側についたものの突然撤退し、秀吉軍を勝利に導いた形になる行動をとった。
 その後、利家は秀吉の軍に転じ、柴田勝家攻めに加わる。その功で加賀の国、石川郡と河北郡を与えられて、金沢城に入った。金沢城はかって勝家とともに戦った佐久間盛政の城であった。盛政は敗れて、秀吉によって斬首されている。
 
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  前田家の基礎を築いた前田利家の像。利家は、秀吉から秀頼の後見を依頼されていたが、関ヶ原の合戦の前年に病死した。
   
 前田利家は豊臣秀吉の政権では、家康とともに重臣の位置にあり、五大老として、豊臣秀頼の後見を頼まれている。利家は豊臣政権では、家康と互角に戦える力と人望がを持っていた。しかし、関ヶ原の戦の始まる前年の慶長4年(1599年)に利家は病死する。  

 利家の後は、利長が継ぐが、その後、家康の勢力がさらに強くなり、加賀征伐まで検討されるにいたる。そこで、利長は母親の芳春院(まつ)を人質に家康のいる江戸に出すことで難を逃れる。関ヶ原の戦でも東軍につき、丹羽長重軍と戦い、勝っている。
 その後も、利長の弟利常に徳川秀忠の娘、珠姫を迎えるなど、徳川家との関係を強めて、前田家の地位を守った。

  前田家の基礎を築いた前田利家は足軽時代から、秀吉と親しかったといわれる。信長にも重用された。大柄な人物で、茶の湯などもたしなむ文化的側面もあったという。
 
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(写真左/ひがしの茶屋街)金沢は友禅、金箔など町人による文化、経済がさかんになった。それとともに茶屋街も栄えた。 (写真右/長町武家屋敷)金沢城下の古いたたずまいも残され、今では観光の名所となっている。
 
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  加賀前田家は徳川御三家に次ぐ実力を持ち、禄高も百万石を超えていた。城下を練り歩く「加賀百万石まつり」(写真上下)が毎年催される。
   
 幕末から、明治維新への流では、慶應4年(1866年)の鳥羽伏見の戦では、幕府側に参加するが、敗色を知り、新政府軍に恭順の意を表したりしている。いずれにしても、明治新政府の主流には入れなかった。
  明治2年(1869年)の版籍奉還では、加賀藩は金沢藩と改名し、明治四年の廃藩置県の際にいったん金沢県となった後、石川県と改められた。
 
 親指のように能登半島が日本海に突き出た格好の石川県は、富山、福井の北陸三県のなかでも、文化面などを含め特異な位置にあるようだ。もっとも近い大都市圏は名古屋だが、あまり名古屋とはあまり交流がない、むしろ敬遠しているふしがある。織田信長のころは、前田利家が信長の配下にあったり、名古屋出身の秀吉や三河出身の家康が主家筋に当たっていた関係だったことも影響しているのだろうか。理由ははっきりしないが、むしろ関西圏との交流が濃い。特に、文化面ではそうだ。
〔写真提供〕金沢市