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国内旅行
諸藩見聞録
第5回【尾張藩(名古屋)】前編 豊かな土地と河川に恵まれ、英傑を輩出
 尾張は日本列島のほぼ中央にあり、東京、大阪に挟まれて日本第三の都市に位置づけられている。木曽川、長良川、揖斐川と、周辺を含め優れた河川にも恵まれている。すぐ近くには温暖な知多半島があり、野菜や果物、そして新鮮な魚介類もとれる。
 こうした地の利も寄与したのか、尾張とその周辺からは、織田信長を初め豊臣秀吉ら日本を代表するような人物が出てきている。また、尾張藩は徳川時代、紀伊、水戸をしのいで徳川御三家の筆頭格であり、禄高も六十一万九千石と大名の中でもトップクラスにあった。
 
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  空襲で焼失後復元された名古屋城の天守閣。
   
 尾張の藩祖は徳川家康の九男の徳川義直で、従二位大納言。名古屋城の築城は家康の命で、城造りの名手、加藤清正らがあたった。慶長十五年(1610年)に取り掛かり、大阪の陣の翌年の元和二年(1616年)に義直が入城している。
 新しく設計された名古屋の城下には、それまで義直が居城していた清洲から町人をはじめ神社、仏閣をこぞって移し、名古屋の城下町が形成されていった。これが 「 清洲越え 」 といわれている。
 関ヶ原の戦以降の不安は九州の島津、黒田、そして中国の毛利といった西の面々にあると、家康はみていた。このため東海道に頑丈な城が必要だと考えた。それが名古屋城にあたる。従って、名古屋城は敷地を大きく取り、いたって堅固に造られ、西方の守りに備えている。
 
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  熱田神宮。どどいつの発祥の地ともいわれ、多くの歴史を持つ。
   
 義直は熱田新田を拓くなど開発を進んで行った。また、尾張藩は木曽の山林を与えられていたため、檜などの売却で、当初財政は豊かだった。しかし、七代藩主宗春問題や災害復旧費の拠出、それに江戸藩邸に将軍綱吉を迎えた際の御成り御殿の新築(元禄十年、1697年)のための経費がかさんだことなどから、財政は次第に厳しくなっていった。
  尾張徳川家は御三家の筆頭だったにもかかわらず、将軍を一度も出していない。だが、そのチャンスがなかったわけではない。七大将軍家継の時がそれだ。ところが、紀伊藩主の吉宗と将軍職を争っていた宗春の兄、尾張六代藩主・継友が、急死してしまう。このため八代将軍には吉宗が結局就任してしまい、尾張藩の将軍職への夢は消える。
 
 継友の死により尾張藩主となった宗春は、新将軍に就任して享保の改革を積極的に進める吉宗に、強く反抗したような行動を取る。享保の改革で、吉宗が武芸を奨励、奢侈(しゃし)を戒めていたにもかかわらず、そんな宗春の名古屋には芝居小屋が相次いで建ち、役者が集まってきた。また、遊郭も多くできた。そうした行動に出た宗春の胸中には将軍位につけなかった兄継友の無念を思う心が強くあったのであろうか。
 
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  大須観音。大須の街の中心をなす。
   
 この宗春の時代に、栄えたのが大須である。東京でいえば浅草に近い雰囲気をもっている街だ。名古屋城からほとんど真っ直ぐ南下すると、白川公園の先にある。観音様を中心にできていて、もともと大須は門前町だった。宗春の引退までを記録した 「 遊女濃安都 」(ゆめのあと) にはこの大須の賑わいぶりが登場する。
 
 宗春自身は浅黄の頭巾にベッコウの丸笠という姿で馬に乗るという派手ぶりだったという。こうした宗春の行状が当然幕府の批判を招く。また、その奢侈ぶりが尾張藩の財政にも影響してきたことから、藩内にも宗春に自粛を進言するものも出てきた。そして、宗春は失脚、遊郭は江戸時代が終わるまで閉鎖される。
  宗春はその死後も墓に金網が被せられ、許されず、ようやくそれが解かれ、従二位大納言の地位に復したのは天保十年(1839年)のことだった。
  宗春に代わって藩主の座についた宗勝は七ヵ年計画の倹約政策をとり、経費の大幅削減に取り組んだ。そして、次の藩主宗睦も学問を勧める政策を実行。藩史などの編纂に力を注いだ。宗春の時代以降、名古屋は奢侈は改められ、戒められるようになった。むしろ、現在では堅実な生活が名古屋のイメージにもなっている。
 
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(写真左)有松町の祭り風景。名古屋も祭り好きで、その伝統が残っている。
(写真右)産業技術記念館。名古屋は製造業が強く、その基礎は技術にある。