【知の庭】諸藩人物伝 v15松平春嶽
2008.07.14

井伊大老と将軍継嗣問題で対立

橋本左内を呼び寄せ、教育に力を入れる

11歳の若さで福井藩主に
渡辺 誠   
 
写真1

 幕末の福井藩主・松平慶永(よしなが・第十六代藩主)、号を春嶽(しゅんがく)といった殿様を皮肉った狂歌がある。

 春嶽と按摩(あんま)のような名をつけて 上を揉んだり下を揉んだり。


■幕府で内部抗争

 幕府の内部抗争や大藩の対立の間に介入して、徳川の一親藩の大名の身で調停、融和をはかるべく立ち回ったことを風刺したものだ。
 松平春嶽は将軍継嗣(けいし)問題や条約締結に関して、大老の井伊直弼(いいなおすけ)と意見を異にしたことで、隠居、閉門を命じられたこともある。しかし、赦免されてからは、やがて政事総裁職という、将軍を補佐する職にもついて、そのリーダーシップをいかんなく発揮し、日本の近代化に貢献すること大であった。
 幕末・維新の多難な時代が生んだ、型破りの殿様が春嶽である。彼はその「上を揉んだり下を揉んだり」の政治行動の過程で、数多くの逸材を歴史の舞台にデビューさせているが、坂本龍馬もその一人であった。
 風雲児龍馬は、まことに春嶽なければ、歴史にその名を刻すことはなかったに違いない。


■御三卿の一家に生まれる

写真4

 春嶽は御三卿(ごさんきょう)の一家、田安斉匡(たやすなりまさ)の八男に生まれている。徳川御三家の次席で、宗家に嗣子のない場合にはこれを継承する資格のある家柄だから、将軍家とのつながりは深く、十一代将軍家斉(いえなり)は春嶽の伯父、十二代家慶(いえよし)とは従兄弟同士という関係にあった。
 その家慶の命により、福井藩の藩主となったのは天保九年(一八三八)、春嶽十一歳のときだった。病弱ゆえに政治手腕を欠いた十五代斉善(なりさわ)の病没直後の福井藩は、藩政が疲弊していた。この少年藩主は、しかし、自ら質素な生活を実践して、藩を挙げての改革に着手し、近習番の浅井八百里(やおり)や中根雪江(せっこう)らの補佐のもとに、これを着々と進めたのである。
 いつの世でも賢明な政治改革者が最も重んじるものは、有能な人材の大胆な登用である。十六歳で福井に入国した春嶽は、やがて二十歳を数える弘化四年(一八四七)に中根雪江を側用人に任命したのを手始めに、身分や家禄に関わりなく開明的な人材を発掘しては重臣に登用した。


■藩校「明道館」を創設

 わずか二十五石五人扶持の藩医だった橋本左内(さない)を、創設したばかりの藩校「明道館」の蘭学科掛に起用したのが、その最も好い例だ。しかも、蘭医・緒方洪庵門下に出たとはいえ、左内は当時二十二歳の若者だった。中一年置いた安政四年(一八五七)、そして左内は内用掛に取り立てられて藩政の帷幄(いあく)に参画する身となり、将軍継嗣問題に専念したのである。
 春嶽の藩政改革は、藩内の物産を商品化し諸国との交易をはかる物産総会所の設立などの財政改革、洋式兵制の導入などの軍制改革、その他枚挙にいとまがないが、これらは有能な人材を得てこそ成果を生んだのである。
 春嶽がこの点でも「型破り」だったのは、その人材を藩外に求めたことである。先見の明あった思想家ながら熊本藩で冷遇されていた横井小楠(しょうなん)を招聘し、政事総裁職を拝命(文久二年〈一八六二〉)するとその政治顧問に抜擢したのは、中でも特筆される。
 坂本龍馬が春嶽の目にとまったのも、そのふところの大きさゆえだったといえる。


■坂本龍馬とも対面

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 松平春嶽が坂本龍馬と対面したのは、政事総裁職に任じた三十五歳のときだ。所は江戸・常盤橋の福井藩邸と伝えられている。
 龍馬は当年二十七歳、一介の土佐脱藩の浪士にしか過ぎない。親藩である福井三十二万石の太守たる春嶽と、尊皇攘夷の名もなき志士龍馬との出会いは、どう考えても面妖(めんよう)の感がある。
 両者の間には、春嶽の信任を得ていた紹介者が存在していたはずだが、史料の上では未詳とされている。一説に、龍馬の剣師である千葉定吉(北辰一刀流・千葉周作の弟)の子、千葉重太郎が福井藩邸に師範として出入りしていたことから、その肝煎りによるものではないかと見られているが、もとより確証はない。
 ともあれ、龍馬はその年の十月、春嶽の紹介により、いわゆる「一橋派」(一橋慶喜を将軍に擁立しようとした派)の先進的な幕臣、勝海舟を訪ね、その場で弟子入りしている。
 龍馬が世界に目を開き、幕末の舞台に勇躍して躍り出た背景に、何といっても、海舟という巨人との出会いがあったことを思えば、両者の間を取り持った春嶽の仕事が、歴史的に重要な意味を持ってくるのである。
 龍馬は翌年(文久三年)、海舟の弟子として福井に春嶽を訪ね、神戸海軍操練所創設の資金援助を求めている。一国の海防の要を痛感していた春嶽は、福井藩の一年の予算に当たる五千両(異説あり)を融通する旨、約束したという。
 龍馬は四年後の慶応三年(一八六七)十一月一日、再度福井を訪問している。藩士の財政通三岡八郎(由利公正)に新政府の財政運用についてレクチュアしてもらうのが目的だった。同月五日に京都に帰った龍馬が暗殺されたのは、十日後の十五日であった。
 人物を洞察する達眼のひと、春嶽によって世に見出された英傑の惜しまれる死であった。


■紙をたくさん使って勉強

 春嶽は幼少の頃より学問を好んだ。人間の器量を見抜く眼は、資質もあったろうが、書によって培ったに違いない。その好学は、そして彼に先見力をもたらし、早くに二院制の議会政治を構想させている。
 彼はまた、父田安斉善から「お前は羊のようだな」といわれたことがある。勉強のために紙を費やす量が他の兄弟と比べて非常に多かったからで、少年期に自ら「羊堂」と号したこともある。つまりは、筆まめであった。
 明治三年(一八七〇)に起稿し同十二年に脱稿した『逸事史補(いつじしほ)』は、自分の体験した幕末維新の逸事をまとめたものとして、筆まめな春嶽ののこした膨大な遺稿の中でも、特に重要なものである。


■福井神社に祭られる

写真3

 維新後は、民部卿に任じ、大蔵卿を兼任したが、免官して下野してからは、もっぱら文筆に専心して、明治二十三年(一八九〇)、小石川・関口台町の邸で歿した。享年六十三。福井市大手には、春嶽を祭神とする福井神社があり、幕末の国事に奔走し、日本の近代への歩みに功あった、この殿様の遺徳を偲ぶ参詣の人びとが絶えない。



渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。




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