【知の庭】諸藩人物伝 安国寺恵瓊
2008.05.12
秀吉の器量を早くから看破

本能寺変後の外交に手腕
「西の策士」安国寺恵瓊
渡辺 誠
 
写真1

写真1 安国寺不動院金堂(国宝)

 来年のNHK大河ドラマ「天と地と」の主人公直江兼続(なおえかねつぐ)は、上杉景勝(かげかつ)の名宰相として聞こえた武将で、関ヶ原の役に際しては徳川家康に楯突き、主とともに西軍方に属して奥州で孤軍奮闘した。この智将は「東の策士」といわれたが、同じく西軍方に「西の策士」と呼ばれた者がいる。安芸国(あきのくに・広島県の一部)の守護武田氏の一族という、安国寺(あんこくじ)恵瓊(えけい)である。

写真2

写真2 安国寺恵瓊座像

 安国寺恵瓊は、京都五山(ござん)の臨済宗東福寺派の大本山東福寺の二百二十四世住持を継いだ禅僧だったが、一方で、広島市に現存する国宝、不動院(もと安国寺)の金堂ほか、重要文化財の寺院建築の新造、修復に数多くたずさわっている。
 しかし恵瓊は、単なる戦国の禅僧ではなかった。
 もう一つの顔があった。使僧(しそう)、すなわち外交を専門とする僧侶としての顔である。そもそも師匠の竺雲恵心(じくうんえしん・東福寺二百十三世)が毛利氏の使僧として働いた僧侶で、恵瓊もこれを継いで手腕をあらわすに至ったものである。


■秀吉と毛利の講和にこぎつける

 その外交僧としての業績は少なからず伝えられているが、本能寺の変後の豊臣秀吉による毛利氏攻撃の中で、両者の間を講和にこぎつけた仕事は特に重要だ。中国地方の雄(ゆう)、毛利氏を手なづけたことで秀吉の天下取りの道は開かれたのだし、毛利の側とすれば、やがて秀吉政権の大大名という地位を得ることになったから、この外交僧の果たした役割はきわめて大だったといわなければならない。

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写真3 本能寺概観


■輝元を西軍の総帥に

 関ヶ原の役での西軍の盟主は毛利輝元(てるもと)だが、その輝元を引き出し、西軍奉行衆により盟主にまつりあげられるように動いたのも、恵瓊であった。

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写真4 毛利輝元

 これより先、秀吉と毛利との講和成立後にしだいに秀吉に直属して働くことになっていた恵瓊は、その功績を認められて伊予(愛媛県)に二万三千石、安芸(あき)・広島に一万千石余を領す大名に封じられている。さらに関ヶ原の役の直前(慶長五年)に、伊予の知行は六万石に加増されている。しかも東福寺の住持に、二年前(慶長三年)に任じてもいる。これらはすべて豊臣あっての大栄達だから、肝胆(かんたん)相照らす仲の石田三成から大事を打ち明けられると、いちはやく反家康側に与(くみ)したのももっともだ。
 あるいは味方につくように石田三成が巧みに誘ったものか、ともあれ、恵瓊に与えられた役どころは、毛利一族を西軍に誘致するための工作だったのである。


■応じなかった吉川広家

 毛利輝元は、恵瓊の働きにより、こうして西軍総帥に担ぎ出された。その限りでは工作は成功だった。しかし、毛利の一翼をになう吉川(きっかわ)広家は恵瓊の説得に応じなかった。広家は後に家康に内応(ないおう)して東軍の勝利に貢献したから、結果的には失敗の面もあったといえよう。


■交えず戦場離脱

 関ヶ原本戦に臨んで安国寺恵瓊は南宮山の岡ヶ鼻という所に陣をしいた。その兵一八〇〇という。その陣営は別働隊の最後尾であって、そこに陣を置いた長束(なつか)正家もそうだったが、恵瓊もまた一戦も交えることなく、敗報に接すると同時に戦場を離れている。
 戦わずして逃げたのである。それについて徳富蘇峰(とくとみそほう・明治時代のジャーナリスト)は『近世日本国民史』に、「これ実に奇怪千万といわねばならぬ」「石田三成でなくとも、何人(なんぴと)も不思議千万と思わねばならぬ」として、こう酷評している。
 「惟(おも)うに彼ら〔恵瓊と長束正家〕は家康を怖れ、いわゆる臆病風に取り附かれたのであろう。東に直江兼続、西に安国寺恵瓊、いずれも策士であるが、恵瓊がまさかの時の態度は、はなはだ面白くない」
 これとは別に、恵瓊が吉川広家に牽制(けんせい)されたので軍を動かすことができなかったとする説、後備のために戦況について十分な情報を把握し得なかったという説もある。


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c5 関ヶ原合戦図屏風(岐阜市歴史博物館蔵)


■六条河原で斬首さる

 さて、早々と戦場を離脱した恵瓊は、伊勢路から転々として山城(京都)に入り、大原(おおはら)に潜伏していたが、五、六十人いた下人(げにん)はそこで五、六人に減っている。金銀を盗んだ上に、下人たちは恵瓊を見捨てたのである。彼はそれから鞍馬に逃れて月照院に隠れた。そして東福寺に入ろうとしたのだが、洛中に乗物で潜入したところを捕らえられて(九月二十日)、十月一日、六条河原(ろくじょうがわら)で斬首されている。
 遠い以前の天正元年(一五七三)、将軍足利義昭(よしあき)と織田信長との不和を調停するために上洛したときの、恵瓊の予言がある。信長はやがて没落するが、配下の木下藤吉郎(後の秀吉)について、
「さりとてハの者ニて候」
 と、彼は言ったのである。秀吉の器量の優れていることを、早くも看破していたのだった。
 外交の名手ゆえに、人を見る目はあった。しかし、戦いの趨勢(すうせい)を読む力に不足するところがあったということになろうか。


■恵瓊の安国寺は現存

 天下分け目の関ヶ原に敗れた毛利輝元は、戦後、周防(すおう)・長門(ながと)――今の山口県に移されることとなり、自分が築いた広島城を退去させられる。東軍に属して軍功あった福島正則(まさのり)が、安芸・備後四十九万八千石に封ぜられる。しかし、足かけ二十年で正則は改易されて信濃・川中島に移されている。幕府に無断で城の修築を進めた罪を問われたものだが、内実は豊臣恩顧の大名を一掃せんとした幕府の「力の政治」の生贄(いけにえ)にされたものである。時に元和五年(一六一九)のことで、広島には浅野長晟(ながあきら)が移封されて、以後、同氏歴代が藩主として幕末を迎えている(四十二万六千石)。
 さて、恵瓊が復興した安国寺は、福島正則が入国したとき、その祈祷僧の宥珍の住持するところとなり、臨済宗から真言宗に改められ、不動明王を本尊として「不動院」に改称された。同寺は浅野氏歴代の手厚い保護を受け、原爆による大きな被害も受けることなく今日に至っている(広島市東区牛田新町)。
 広島市に現存する唯一の国宝、不動院(正式名称は新日山安国寺不動院)の金堂に、恵瓊という僧侶の、戦国ならではの数奇な生涯を偲ぶことができよう。

渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。




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