【知の庭】諸藩人物伝
2008.04.07
危険予知に卓越した能力備える 坂本竜馬とならび称せられる幕末の英雄 木戸孝允として、明治維新政府でも活躍
渡辺 誠
 
 坂本龍馬と並び称されることの多い勤皇の志士、桂小五郎は、一説に新国劇「月形半平太」のモデルといわれている。「月さま、雨が・・・」「春雨じゃ、濡れて行こう」という名台詞が知られている、志士と芸妓のラブストーリーが主題の劇だが、それは明日の命もあやぶまれる幕末の京都で、小五郎が美妓幾松(いくまつ)との間にくりひろげた恋物語が創作の種となっているようである。
 
「逃げの小五郎」
木戸孝允(桂小五郎)肖像画

木戸孝允(桂小五郎)肖像画
 
 そういうロマンの香り高い青年、桂小五郎であるが、司馬遼太郎の短編「逃げの小五郎」が広く読まれるようになってから、そのイメージがよほど変わったものになった。
 この長州藩士が藩の指導者となり薩摩藩とともに幕府を倒したこと、そして、維新後は木戸孝允(たかよし)と名を改めて参議などの要職を歴任し、明治政府の進歩派の核となって活躍したことは、人の知るところだし、享年四十五はもちろん長命とはいえぬが、二歳年下の龍馬より十二年生きながらえている。それもこれも、「逃げの小五郎」ゆえに、よく成し得たことだったという、司馬作品の切り口は、さすがに独創がひかっている。
 
池田屋の難を逃れる
 たとえば、かの「池田屋の変」のときの彼の行動が、「逃げ」の本領を発揮した話として伝えられる。
 京・三条の池田屋で尊攘派の浪士の会合が開かれることになったとき、小五郎は定刻前にやって来たが、同志らがまだ集まっていないというので、ほど遠くない対馬藩の別邸におもむく。そのあと新撰組が池田屋に斬り込んで浪士たちを血祭りにあげたことは、周知のとおり。小五郎はあやうく難を逃れたのだった。
 
愚行を回避
 偶然だったのか、それは――。
 真相はおそらく、こうであったろう。同志の一人が新撰組に捕らえられていたおりから、当日の夜がきわめて緊迫した情勢だったことは、京都の長州藩邸の面々もこれを察知していたにもかかわらず、押して会合を持つのは、小五郎としてはあまりにも無謀なことに思われた。さりとて藩邸内の諸士を総官する立場にあった彼は、坐して黙過することもできない。そこで形だけ顔を出したばかりで立ち去ったものである。
 すすんで死地に踏み込むような愚行を回避したまでだったということになるが、これに限らず、寸毫(すんごう)の差で危難を逃れた話は、小五郎に少なからず伝えられているのである。
 
小人物との評価も
木戸孝允(桂小五郎)旧住宅

木戸孝允(桂小五郎)旧住宅
 
 桂小五郎という幕末の「花形スター」は、実は昔から毀誉褒貶(きよほうへん)の分かれる人物とされてきた。龍馬のような奔放な人柄を愛する向きは、その用心深さ、要領の良さ、犀利(さいり)な性向を指して、スターにふさわしからぬ小人物に過ぎない、と評価を下す。しかし、一方に、命をあえて危険にさらすのを避けるのは活動家としての義務であり、小五郎はそれを全うするのを自らに課した、真の活動家である、という評価もある。
 それはともかく、いずれの評価にくみするにせよ、彼が身の危険を予知するのに卓越した能力をそなえていたことを、認めないわけにはいかないのではないか。いったい、この能力をいかにして身につけたのだろう。
 
吉田松陰に師事
松下村塾

吉田松陰が主宰した松下村塾
 
 桂小五郎は二十石取りの藩医の家に生まれて、家格は高いが百五十石の藩士の家に養子入りし、藩校「明倫館」では吉田松陰に師事して山鹿流の兵学を学び、また、藩校付属の武道館「有備館(ゆうびかん)」においては新陰流の剣を内藤作兵衛なる師について修めている。しかし、学才も、剣の腕前も、いたって凡々たるものだったという。そういう小五郎が幕末史の舞台に躍り出るきっかけは、二十歳のときの江戸遊学にあった。
 「黒船来航」の前年(嘉永五年〈一八五二〉)の秋、斎藤新太郎という剣客が萩に来た。江戸三大道場の一つに数えられた神道無念流「練兵館」の主、斎藤弥九郎の長男である新太郎は、三度目の来遊となったこのとき、長州藩庁に積極的に働きかけ、若き有能な士を江戸のわが道場に遊学させることによって、貴藩の剣の水準を向上させるようにと、慫慂(しょうよう)したところ、臣下の進言を介して藩主毛利敬親(たかちか)も決断して、五人の剣士を選んで新太郎の東帰するのに従わせた。
 
江戸遊学を志願
 このとき、選外ながら特別に志願して江戸遊学を許可されたのが、小五郎だった。実父は医師ではあるが理財に長けていて裕福だったので、私費による遊学を志願して許されたものである。
 その小五郎は、しかし江戸でめきめきと頭角を現し、ついには練兵館の塾頭に挙げられるまでになる。同時に、その剣名が江戸の剣界に知れ渡るのである。すなわち、彼は青年剣士として、颯爽として幕末史の「初舞台」を踏んだのだった。
 ところで、桂小五郎は強かったか、ということがよく話題にされる。
 それについては彼の試合表のようなものが幾つか伝えられているが、峻厳(しゅんげん)な史家の研究によれば、いずれも信を置くに値しない偽文書ということだ。中には、無理やり坂本龍馬と対決させてこれを破ったことにしているものもあるが、結局、小五郎の剣の技量のほどは、証し難い。
 
剣を知らざるをよしとす
 ただし、次のようなことはいえる――。
 神道無念流の『演剣場壁書』というものがある。この流儀を学ぶ者の守るべき心得を記したそれに、
 ――短気我慢(わがまま)なる人は却(かえ)って剣を知らざるをよしとす。
 ――兵は凶器といへば、其の身一生用ゆることなきは、大幸といふべし。
 さらに「些細な争いから刃傷に及び、自分の身を滅ぼし家を失うことは、親、主君に対する不忠不幸の罪を負うことにほかならず、また、その剣師をはずかしめるにひとしい」という意味の条文もある。
 剣の道において、真の強者はむやみに刀を抜くことはしないものである。そして、抜かねばならぬ場は、これを直感によって察知し、できる限り避けるものである。この壁書にある理由から、そうするのだ。
 小五郎の「剣」は、そういう剣であったに違いない。
 だから「逃げの小五郎」という呼称は、もし彼に言わしめることができれば、むしろわが本懐とするところである、とでも応えるかも知れない。

 木戸孝允、というより桂小五郎の名が親しまれているこの長州の英傑の生家(和田昌景宅・国指定史跡・山口県萩市大字呉服町)は、幕末のロマンをしのぶ名所として、萩を訪れる人の見学の足が絶えない。
 
渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
【写真協力】(社) 萩市観光協会、山口県立山口博物館
 
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