そら飛ぶ庭
  

【知の庭】 おらが藩
2008.03.03
 
渡辺 誠

 

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リンゴが花をつける頃、岩木山にはまだ雪が残る
 
 ――城のある町。
 弘前の観光パンフレットによく見かけるコピーである。
 古城のある町が全国に少なくないなかに、あえて、こう謳(うた)いあげているわけは何だろう。
 弘前城は初めは高岡城といって津軽藩祖の津軽為信(ためのぶ)の代に築城が計画され、その没後に子の信牧(のぶひら)がこれを受け継いで慶長十六年(一六一一)にほぼ完成をみた城だ。ところが、築城後十六年を経た年(寛永四年)に五層の天守閣が炎上してしまったので、信牧は不吉の国運を一掃しようと、名を「弘前城」と改めるとともに、四万七千石の城下町も改称したのである。
 
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 天守閣は、なかなか再建されなかった。しかし江戸時代後期にいたって、藩が蝦夷の警衛に当たることとなり、その功により家格七万石、さらに文化五年(一八〇八)に十万石に昇ってから、時の藩主(九代)の寧親(やすちか)が再建を発起して、同八年に竣工している。これが今の三層の天守閣である。

 ところで、「城のある町」という謳い文句の由(よ)ってきたるゆえんの一つは、その町づくりにあるのではなかろうか。
 藩祖為信の遺志をついで代々の藩主は、居城を中心とした合理的な町づくりを進めている。すなわち、道の全部を城を起点として放射線状に延びるように開いて、曲がり角や死角を設けてこれを路次でつなぐようにした。むろん軍事上の理由からだったが、こうした道は町から領内の隅々にまで延びたので、津軽の道という道は藩主の居城に通じることとなったのである。

 

 このようにしてつくられた城下町の遺構が極力保存されているのは、めずらしい。これを弘前の人は「城のある町」という言葉に託して、誇りとしているかに思われる。
 「桜の古城」といわれるように、弘前の城址は桜の名所とされている。桜は明治三十六年から本格的に植えられたもので、それ以前の植樹を代表するものは、松だった。おびただしい数の松を城郭の内に植えさせたのは、四代藩主の信政(のぶまさ)で、時に寛文十年(一六七〇)のことである。
 津軽富士、奥富士といった異称のある岩木山(いわきさん)を津軽の人は「御山(おやま)」と称して崇めるが、その山麓の高岡に、高照神社という社がある。明治元年以前は高岡霊社といっていたそれは、「津軽中興の名君」たる信政を神式で葬るときに創建された神社だ。

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弘前城は名代の桜の名所として知られる

 

 「高照神君」という名で神格化された津軽信政は、その五十五年にわたった治世に、藩政、兵制そのほかに制度改革を行い、藩の政治体制を安定させ、産業を振興し、文化の水準を向上させているが、その業績のなかでも特筆大書されるのは、新田の開発である。
 弘前市の北方に板柳(いたやなぎ)、五所川原(ごしょがわら)、木造(きつくり)、金木(かなぎ)といった市町村があるが、これらは茫漠とした湿原地帯だったのを信政が開田させて生まれている。その治世に誕生した村は実に二百三十ヶ村を数えたし、それによって米の生産高が飛躍的に増えたことが『津軽平野開拓史』などに書かれている。
 信政は、また文武両道の士風を確立するために、高名な学者、武芸者を招致するのに力を注いだのである。
 津軽武士の士風には、信政当時の文教政策が色濃く投影されたまま、維新をむかえたといっていい。

 

 唐突だが、弘前高等学校(旧制)に三年間在籍したことのある小説家太宰治(だざいおさむ)は、『津軽』という作品にこんなことを書いている、やや長くなるが、津軽の士風にかかわることのように思われるので引用する。
 ――歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言ってよいくらいにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地(いこじ)にその封建性を自慢みたいにしているのだろう。〔中略〕近くは明治御維新の時だって、この藩からどのような勤皇家が出たか。藩の態度はどうであったか。露骨に言えば、ただ、他藩の驥尾(きび)に附して進退しただけの事ではなかったか。どこにいったい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は頑固に肩をそびやかしている。
 「純血種の津軽人を自認する太宰は、津軽を愛しつつ、こんな悪口を言ってはばからないのだが、さらに、「弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜稜(りょうりょう)たる反骨があるようだ」とも書いている。
 この「稜稜たる反骨」を、「情(じょ)っ張(ぱ)り」と、一言でいうのであろうか。悪く言えばそれは閉鎖孤立にして狭量(きょうりょう)強情、良く言えば独立不羈(ふき)、志操(しそう)堅固な気質をいうらしい。
 この情っ張りが、津軽武士の士風の根幹をなしていて、維新後の旧藩士族にもその遺風がのこされていたものと思われる。

 

 たとえば、こんなことがあった。
 新政府は明治四年に「散髪(さんぱつ)・脱刀(だっとう)、勝手たるべきこと」と布達した。実質的には廃刀令の布告にほかならならかったのだが、弘前の情っ張り士族たちは、脱刀するのを潔(いさぎよ)しとせずに応じない者が多かった。翌年になってもそうだったし、中には真刀を帯びるのをやめたかわりに、木刀を差して往来をふんぞりかえって闊歩する者もいた。そこで明治六年になって、今度は木刀を帯びることを禁ずる旨の布達が青森県庁より出されたが、なかなか守られなかったという。
 洋式散髪も、士族にはあまり受け入れられなかった。大正十年頃になっても、丁髷(ちょんまげ)を頑固にとおした翁もいたそうである。

 
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美空ひばりの「りんご追分」にも歌われた津軽名産のリンゴ

 

 りんごは、津軽の言葉で「りご」といい、りんごの収穫を「りご?(も)ぎ」というそうな。
 美空ひばりの「りんご追分」に歌われた津軽りんごである。この西洋種のりんご、すなわち「アップル」は明治七年、宣教師であり東奥義塾(とうおうぎじゅく)の講師でもあったジョン・イングという人が紹介し、また、旧士族の殖産のために内務省の勧業担当部署が苗木を分配したことから、上級士族が指導的立場に立って試作をすることになったのだという。
 津軽の情っ張り侍は、近代をむかえて、なおも岩木山みたいに肩をそびやかしていた一方で、そんなところに貢献している。
 津軽を旅する人は、津軽武士の士風を弘前の城に偲び、もぎたてのりんごの味に感じ取ることができるのである。

 
  写真提供:弘前観光コンベンション協会
 
渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
【写真協力:宮城県観光課、宮城県柴田町、高知市観光協会
 
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