そら飛ぶ庭
  

【知の庭】 おらが藩
2008.02.04
 
渡辺 誠

 江戸時代の御家騒動の中でも、とりわけ知られている一つに、歌舞伎の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の題材にもなった「伊達騒動」がある。
仙台藩の江戸初期のこの御家騒動に取材した作品の多い中にあって、最も愛読されてきたのは、山本周五郎の『樅ノ木は残った』ではなかろうか。
 昭和二十九年から前後四百七十七回にわたり日本経済新聞に連載されたこの大長編小説の主人公が、原田甲斐という仙台藩の奉行(家老)であるが、いったい、伊達騒動とはどのような事件だったのだろう。

 
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仙台城にそびえる伊達政宗騎馬像
 
 

 伊達家第三代の当主綱宗(つなむね)は、大酒と風流の性癖が甚だしく、一門や老臣の度重なる意見にも耳をかさなかった。この殿様は出府したときに、側近と共に遊里に遊んだこともあったという。
  こういうことから一門・重臣は幕府に願い出て、幕命により「不行跡」のかどで彼は逼塞(ひっそく)に処せられた。よって二十一歳という若さで隠居の身となったのだが、これが十二年間に及んだ伊達騒動の導火線となったのだ。
  さて、綱宗が逼塞を命ぜられると、仙台六十二万石の跡目は子の亀千代が相続する(万治三年・一六六〇)。新しい藩主が幼弱のために政治が空白状態におちいったとき、一門(藩主と近い親戚関係を結んだ諸家)が党派をなして策動することがある。これに藩主を擁護する派が対抗し、両者の対立がついには収拾のつかぬ大規模な御家騒動になった例は少なくないが、この典型が伊達騒動であった。

 

 この事件の場合、一門の党派的策動の主導権を一貫して握っていた人物を、伊達兵部(ひょうぶ)という。藩祖伊達政宗の末子で、今は隠居の身の綱宗には叔父に当たる男。彼は亀千代が家督を継ぐと、一関(いちのせき)に三万石を分知されて支藩を立てる。そして田村右京(綱宗の庶兄)と共に、幼君の後見を命ぜられる。
 この両後見と最初に対立したのは、時の奉行衆の中で実権を握っていた奥山大学だったが、彼は敗れて職をおわれ、ここに両後見体制――実質的には伊達兵部の指導体制が確立したのである。

 

 それからの兵部は、幕府老中(のちに大老)の酒井忠清との間に婚姻関係を結び、酒井の権威を後ろ楯として、さながら藩主のごとく君臨するようになった。その与党として内政に当たったのが、原田甲斐らの奉行である。

 
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伊達騒動の舞台となった仙台城

 

 原田甲斐は、伊達政宗の愛妾の孫である。仙台藩の家格でいう「宿老」の家に生まれ、四千石を給されて、船岡(宮城県柴田町)の城を居館としていた。宿老の臣の嫡子は成人すると奉行を任じるのが、この藩の慣例だったから、実権のある伊達兵部のもとに甲斐が政治に参画するのはごく自然なことだった。
 しかし、兵部を頂点とする政治は、反対勢力の烽火(ほうか)に油を注いだのである。これを兵部は容赦なく退け、かつ処罰した。この騒動が終息するまでの間に彼によって処断された譜代の直臣は、実に百余名を数えたという。
 このために、後に極悪の圧政と酷評されることになる両後見政治の中枢をなす奸臣として、原田甲斐の名が長く伝えられるに至ったのである。

 

 ところで、そういう伊達兵部の前に、強力な政敵として名乗りをあげた者がある。一門の大族、伊達安芸(あき)だ。この御家騒動は以後、両者の対決を中心に展開していく。
安芸は以前から反・兵部の立場にあったが、所領の境界争いがこじれたのがきっかけとなって、兵部の前に立ちはだかることになったものである。やがて安芸は境界問題に対する裁定の不公平であることを幕府に訴えたのみならず、兵部らの秕政(ひせい)を上訴した。
 伊達騒動が終末をむかえたのは、寛文十一年(一六七一)。同年の二月二日、安芸が決死の覚悟をもって出府してから間もなく、幕府による審議が始まったが、その大詰めの三月二十七日――。

 

 この日、大老酒井忠清の邸に召喚された伊達安芸、そして原田甲斐を含む三奉行は、老中の列座する中、陳述させられたが、その個別の審問の終わったころ、突然、甲斐が安芸に斬りかかりこれを殺害したのである。その場で、甲斐は他の奉行二人の斬撃を受けて即死している。
 幕府の処分の結果は、伊達兵部は改易(かいえき)のうえ土佐・山内家にお預け、もう一人の後見人たる田村右京は閉門ということであった。亀千代こと綱基(つなもと)――後の綱村には六十二万石安堵の申し渡しがあり、後見体制は解かれた。
かくて、仙台藩は取り潰されずに済んだのだった。
 刃傷におよんだ原田甲斐の子息四人は切腹、孫二人は獄卒の手で刺殺され、譜代の原田家は断絶している。

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原田甲斐の居館船岡城は、今は船岡城址公園となっている(宮城県柴田町)

 

 はたして、原田甲斐は奸臣なのか、忠臣なのか。
 山本周五郎は『樅ノ木は残った』で、伊達兵部と通じていながら実はその与党ではなく、安芸と対立しながら実は安芸と深く結んでいる、忠・奸いずれでもない第三の性格をもつ政治家として甲斐を造型している。
 ―――原田甲斐その人の「人間」と「生活」を描いてみたい。
 連載を前にこのような意図を語った作者は、伊達騒動を、幕府が藩内を動揺させ、あわよくばこれを取り潰そうとした事件と見る。そして、藩内の対立を解消する道を「真の忠義」として、「人間原田甲斐」の生と死にそれを託したのである。

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 仙南地方のほぼ中央、仙台平野への玄関口に位置している柴田町には、原田甲斐宗輔の居館船岡城があり、今は城址公園になっている。
 蔵王の山と太平洋の眺望が楽しめるその公園には、周五郎作品のヒントになったという樅の木を、現在も見ることができる。

 
 
渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
【写真協力:宮城県観光課、宮城県柴田町、高知市観光協会
 
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