そら飛ぶ庭
  

【知の庭】 おらが藩
2008.01.07
 
渡辺 誠

 日本三大仇討の一つ「伊賀越(いがごえ)仇討」は、今から三百七十年前の寛永十一年(一六三四)、今は三重県伊賀市に属す伊賀上野の通称「鍵屋之辻」で行われている。この壮絶な復讐劇で助太刀として豪剣をふるった男、荒木又右衛門は、津藩・藤堂家に何かと所縁のある侍であった。

 
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伊賀越え仇討の舞台となった鍵屋の辻を見下ろす伊賀上野城
 
 又右衛門の来歴については不明な点が少なくないが、その父と伝えられる服部平左衛門は、藤堂高虎に仕えて百五十石を食んだといい、父の没後に又右衛門は浪人して、備前・岡山藩の池田忠雄(ただかつ)に百五十石で抱えられた後、致仕(ちし)してから、大和郡山藩の松平忠明に召し出されて、二百五十石をもって剣術指南役に取り立てられたことがわかっている。
 彼にとっては故地の伊賀上野――藤堂氏の支城である上野城の城下において、後世に説話文学、浄瑠璃、芝居や講談などに粉飾され、「又右衛門の三十六人斬り」と世に喧伝される剣名を鳴らしたのは、奇縁というほかない。
 

 さて、この仇討の発端は、寛永七年(一六三〇)にさかのぼる。
 所は備前岡山の城下で、ちょうど藩主池田忠雄の世子誕生を祝う盆踊りに沸く七月二十一日だったが、渡辺源太夫という者が、河合(かわい)又五郎なる者に殺されるという事件が起こった。原因は衆道(しゅどう)、すなわち男色のもつれであるという。
 殺害された源太夫には、数馬という当時二十三歳の兄がいた。すなわち、後に討手となる人である。外出先より帰宅した数馬は、弟のいまわのきわの言葉を家来の一人から告げられると、河合又五郎の屋敷へと押しかけたが、その父河合半左衛門はわが子をすでに逃亡させている。

 
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史跡になっている鍵屋の辻
(伊賀市内)

 
 事件の報告を受けて、怒り心頭に達したのは、藩主の池田忠雄だ。半左衛門が所業断じて許すべからずと、彼を臣下の者の屋敷に拘束する一方、又五郎の行方を探索させると、かの者は江戸の旗本安藤対馬守(重信)のもとにかくまわれているというのである。
 その後の経緯はすこぶる入り組んでいて、記述が長くなるので省略するが、事件から二年後(寛永九年)に池田忠雄は三十一歳で歿している。その臨終の際に家老を呼びつけた彼は、「河合又五郎が事につき、なお幕府に訴え、余が所存を遂げてくれよ」と言い遺したのである。事件は、もう、外様大名池田家と、安藤を中心とする江戸の旗本との争いに及んでいたのだ。
 

 池田氏は、間もなく鳥取三十二万石に国替えとなり、時を同じくして七百石の家禄を捨てて同家を致仕した渡辺数馬が、弟の仇討もさることながら、亡き主君の遺命を果す一念を抱懐して訪ねたのが姉みねの夫、大和郡山藩の剣術指南役の荒木又右衛門であった。
 ところが、異なことに、又右衛門と同じ藩に、仇敵又五郎の伯父河合甚左衛門(一に勘左衛門)という三百石取りの士がいた。これが剣の手だれで、又右衛門が義弟数馬の助勢を決意したのと同様、甥の又五郎の助勢を買うべく、郡山藩に暇を乞うた。又右衛門も暇をもらい、門下の河合武右衛門を引きつれ、数馬、その若党の森孫右衛門、合わせて四人で、仇討行脚(あんぎゃ)の旅に出る。

 
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又右衛門の遺品などが展示された伊賀越資料館

 

 奈良から伊賀に至る道を、「加太越(かぶとごえ)奈良道(みち)」といった。歳月は流れて寛永十一年、奈良から大河原宿、島ケ原宿を経て、伊賀上野城下の西の入口「鍵屋之辻」の「万屋(よろずや)」という茶店に、荒木又右衛門ら四人の姿を見ることができたのは、初冬の十一月七日の払暁である。
 霧が名物の伊賀だが、ことに濃い霧のたれこめた朝だったという。
 この辻は、仇討始末を津の本城に報告した公文書(『宗国史』累世記事・所収)には、「上野小田町鍵屋之前三辻」とあって、当時は三叉路の交差点だった(今は西大手町に至る道がある)。往古の地図に、馬喰町、馬苦労町、ばくろ町などと記されている町にある辻である。

 

 かれら四人が待ち受けていたのは、河合又五郎の一行十一人。その中にあって容易ならざる強敵とされたのは、河合甚左衛門、そして又五郎の妹婿で槍の名手の桜井半兵衛という、摂津・尼崎藩の士だ。ほかは若党、小者たちでしかない。
 戦いは午前八時頃から午後二時頃まで、実に六時間にも及んでいる。その結果、河合方は又五郎、甚左衛門、桜井半兵衛、さらに下人(げにん)三人が死亡。又五郎を討ち取ったのは渡辺数馬だったが、相当の深手を負っている。
甚左衛門は、荒木又右衛門が討った。彼は右の親指と薬指、脛に槍疵、いずれも浅手であった。桜井半兵衛には、武右衛門・孫右衛門の二人で掛かったが、仕留めたのは又右衛門のようである。数馬方の死亡は、武右衛門のみ。

 
 荒木又右衛門の「三十六人斬り」は、むろん講釈師の張扇がたたきだした作り話である。
 それにしても、又右衛門たちは、なぜ鍵屋之辻を襲撃の場に選んだものか。
襲う場所はそこに至るまでにいくつもあったであろうに、城下の入口にこれを設定したのは、数馬の父内蔵助が岡山藩に仕える前に藤堂高虎の臣下であり、又右衛門の父も、述べたように同様だったことと結びつける向きもある。つまり、伊賀上野の城下には、そういうことから両人に縁故ある者が少なくないから、仮に形勢が思わしくなくなった場合、助力をたのむことができることを計算に入れていた、という見方だ。現に当日、上野城の城代藤堂出雲守高清(高虎の弟)の手の者が三つの道を閉ざして、河合党の退路を断っていた、という憶説もある。
 本願成就の後、又右衛門と数馬たちは老臣藤堂式部(本姓・磯崎家信)に身柄を預けられ、その式部没後は城代の藤堂高清に預けられ、客分として二十人扶持を給されていたが、寛永十五年(一六三八)二月二十日に幕府の命が下って、二人して、はれて藤堂家の臣に取り立てられた。
しかし、複雑な政治的背景により、同年八月、かれらの身柄は鳥取藩に移され、又右衛門はかの地に着くと間もなく病死したことになっている。享年四十一だった。

 伊賀市にある「伊賀越資料館」には、今、この仇討にまつわる資料が展示されている。

 
 
渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
【写真協力:(財)徳島県観光協会】
 
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