そら飛ぶ庭
  

【知の庭】 おらが藩
2007.12.10
 
渡辺 誠

 昭和の国民的作家吉川英治の出世作は、『鳴門秘帖』という伝奇小説であった。「大阪毎日新聞」に、大正十五年十月から昭和二年十月まで連載された、当時は新進作家の彼のこの新聞小説は、『銭形平次』の作者として知られる野村胡堂をして、「すごい空想力だと思った」といわしめている。
 江戸時代中期の宝暦・明和年間に、幕府転覆の陰謀があったことにして、その黒幕として作者が虚構の世界に拉致してきたのが、阿波・徳島二十五万六千九百石の十代藩主、蜂須賀重喜(はちすかしげよし)である。
 まさに「すごい空想力」というべきだが、俗に、火の無い所に煙は立たぬという。この殿様の事蹟のどこに、吉川英治はその火種を探り出したのだろうか。

 
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徳島城の落成の際に
阿波踊りが踊られた
 

 蜂須賀重喜は、もともとは阿波の生まれではない。出羽・久保田藩(秋田藩)佐竹氏の分家(新田分の領主・壱岐守家)の義道(よしみち)の第四子で、徳島藩主の蜂須賀至央(よしひさ)が六十余日という短い治世で病没した後をうけ、末期(まつご)養子に迎えられて同藩主の座についたものだ。時に宝暦四年(一七五四)、重喜十七歳だった。
 そのころ徳島藩には様々な難題が山積しており、青年藩主の重喜は、中でも藩財政の危機的状況の打開、家中の乱れきった風儀の刷新という問題に当面させられたのである。しかし、これらを中心とする藩政改革は、焦眉(しょうび)の急(きゅう)とされながら、大きな壁が眼前に立ちはだかっていた。

 

 今風にいえば強大な「抵抗勢力」を家老衆が束ねていて、蜂須賀家代々の慣例をことあるごとに持ち出して、重喜を突き上げるのだ。実際、徳島藩はかれら家老たちの主導により藩政がいとなまれており、よそ者の重喜がこれを抑止して藩主の「直仕置(じきしおき)」、直々の政治を展開するのは容易ならざることだった。
 これに対して重喜がもくろんだのは、まずは自分の「チルドレン」勢力を形成して、その力を強め、もって因循姑息(いんじゅんこそく)の家老勢力に対抗させるという方策であった。彼はかねて家老主導の政治に不満を抱懐していた、中老格の近習(きんじゅう)たちを抱き込んで、着々とこの策を仕掛けていった。
 そうした根回しが十分成ったと見た重喜は、そして、藩主就任から五年後の宝暦九年(一七五九)、家格や家禄にとらわれない、能力主義による人材登用を旨とする「新法」を構想するに至る。当然のことながら、これは家老たちの猛烈な反発を買う。
 蜂須賀重喜という殿様は、したたか者である。ここで彼は、途方も無いばくちを打っている。

 
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第12代藩主蜂須賀重喜公の別邸の門

 

 「余がこの政治構想をおしとおすと騒動が起こりそうで、それは如何なものかと思うゆえ、余は国政の権を誰かにわたすことにいたすものである」
 引退声明をして、尻をまくって見せたのである。
 これには家老たちも震撼(しんかん)したことだった。むろん公儀にはかって許しを得たうえのことだが、唐突として藩主に引退されては藩政が動揺をきたすのは必至だ。公儀の心象もあやぶまれるし、だいいち、積年の失政に対する公儀からの問責を、自分たちが一手に受けねばならぬことになる。
 あわてふためいて、かれらは重喜に翻意を懇願した。
現代日本の政党のトップによく見る手法は、大昔に開発されていたわけである。

 

 話は、『鳴門秘帖』にもどる。
 この小説の主人物は、法月(のりづき)弦之丞という美男の剣士である。彼は幕府大番頭(おおばんがしら)の嫡男だったが、隠密組の甲賀(こうか)派第一の旧家、甲賀世阿弥(よあみ)の娘お千絵に恋慕してしまう。が、隠密は極秘の仕事ゆえ、他役の者との縁組は許されぬとあって、傷心した彼は家を捨て、恋人を離れて、諸国行脚の虚無僧に身をやつし、漂泊の旅をつづけていた。
 ところが、弦之丞は恋人お千絵の父世阿弥が幕府転覆の密謀あるらしき阿波に潜入したまま帰ってこないことを知るや、恋人のために、そして幕府のために、世阿弥を救わんとして、やがて、阿波へと向かうのであった――。
 さて、その密謀の黒幕に設定されたのが、述べたように蜂須賀重喜だが、実在の重喜には実際、公儀の疑惑がかけられていたという。

 
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藍染めが徳島藩では育成された

 

 したたかな策をもって藩政の主導権を掌握し、「新法」実施に踏み切った彼は、強力なリーダーシップにより「力の政治」を推し進める。経済政策、農村支配の再編政策を柱とするこの強権的な藩政改革は、あまりにも唐突であり、急激なものであった。それが幕府に目をつけられる因となったものである。
 こうして重喜の徳島藩は、幕府の内政干渉を受けるに至る。明和六年(一七六九)、「政事上の不審の個条」が彼に対して糺(ただ)されたのがそれだ。その結果、重喜は隠居を命ぜられ、嫡子の治昭(はるあき)が襲封した。治昭は十三歳を数えたばかりであった。
 藩政改革半ばにして、三十二歳というあぶらの乗りきった壮齢で、重喜が失脚させられたその真相については、実は謎が多い。
 いずれにせよ、『鳴門秘帖』の創作のタネの一つは、ここらへんにあったものと思われる。

 

 蜂須賀重喜は、藩主であったときは、財政改革の一環として自ら質素倹約を実行したが、隠居後は打って変わった奢侈な暮らしに耽っている。三十二年間のそんな歳月を経て、享和元年(一八〇一)六十四歳で歿した。
 徳島の象徴とされる眉山(びさん)の一角に、「万年山」という名称の墓地がある。重喜が失脚する前の明和三年(一七六六)、仏葬を儒葬に改めて造成した藩主代々と一族の墓地である。
 儒教を奉じて、その教えを徹頭徹尾、政事に忠実に実現するのに急だったところに、もしかしたら、この殿様の落とし穴があったのかも知れない。

 
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渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
【写真協力:(財)徳島県観光協会】
 
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