【知の庭】 おらが藩
2007.07.23
 
白い浜木綿の上を蝶々がひらひらと魚の種類が多くて美味しい遣唐使の寄港地、福江島
 
 

相馬大作
 

 新渡戸稲造(にとべいなぞう)といえば、著書『武士道』で明治期に日本の「国家の品格」を、世界に発信した人といってよい。生まれは盛岡、父は同藩の勘定奉行だったが、その新渡戸の郷里岩手県にあって、「花も実もあるさむらい」と、今も思慕されているのが、相馬大作である。
 江戸時代後期の文政四年(一八二一)、主家と反目する隣藩、津軽藩の藩主を、大作が要撃せんとした未遂事件は、「みちのく忠臣蔵」などとも称えられて、江戸でも評判をとった。そして壮年三十四歳で大作が刑場の露と化した後、かれの行動は尊皇攘夷の思想家藤田東湖、吉田松陰らによって讃えられ、後世、講談、小説の題材にもされている。

 
 
写真  
   
   

 相馬大作は、本名を下斗米(しもとまい)秀之進といった。陸奥国は二戸(にのへ)郡福岡村(岩手県二戸市)の生まれで、十八歳の時、江戸に出て、平山行蔵(こうぞう)という兵学者にして武術家の幕臣に入門した。
 平山行蔵は、文化・文政の「奇傑」として歴史に刻されている。文化四年(一八〇七)にロシア船の択捉(エトロフ)来寇事件に際して、その憂国の情から、北辺の鎮定の先鋒に自分を命ぜられよ、と上書を呈した人で、許可が得られないと見るや、幕府の軟弱な姿勢を批判してはばからなかった。
 大作は、そういう師匠に啓蒙されたのみならず、盟友(細井萱次郎)と共に蝦夷を視察し、北辺警備の重要であることを痛感する。さて、父の病気のために帰国すると、南部藩の士気の沈滞は目を覆わんばかりであったことから、郷里の福岡に「兵聖閣」なる道場を開き、有事の際に働くことのできる子弟の養成に努めた。

 

 ところで、南部の武士たちの意気がとかく阻喪(そそう)していたのは、一つには、藩主が隣り合う津軽藩の下風(かふう)に立たされていたことがある。
 津軽家は、そもそもは南部家の家臣筋だったにもかかわらず、十三万石ながら当主の寧親(のりちか)は、侍従少将に任官している。これに対して二十万石の国主大名である南部利敬(としたか)は無官であり、格式において下位に置かれていた。
 藩主利敬のこのことに対する鬱勃(うつぼつ)たる思いが、下って藩士たちの間に蔓延していたのである。

 その利敬が憂悶のうちに三十九歳で死去したのは、大作が三十二歳の文政三年のことだ。死因は、津軽家に対する積年の鬱憤からくる、今でいうノイローゼだったとも伝えられている。

 

 藩主のその死に、相馬大作は決するところがあった。
 かれは津軽寧親に隠居をすすめて、もし聞き届けられない場合はこれを暗殺せんとの挙を企てる。そして本名を捨てて相馬大作という仮名を名乗ると、翌年(文政四年)四月、参勤交代の帰途の寧親を出羽国白沢駅(現・秋田県大館市の内)近くで待ち伏せする。
 しかし、襲撃によって、寧親を隠居に追い込むという作戦は、一味の者の密告によって失敗している。密告により、寧親の行列は間道をたどることとし、本道を進んだのは、空(から)の駕籠だったのである。
 大作とその一味は、その駕籠めがけて、大砲一発を放ったのみであった。
 後日、それは空砲だったことが判明している。
 その後、江戸に出て道場を開いていた大作は、翌年(文政五年)捕えられて、小塚原(こづかっぱら)において獄門に処せられている。

 
写真

相馬大作の首塚
 

 相馬大作が大死一番、津軽侯を襲撃しようとしたのは、侯に隠居してもらうことにあったが、真の目的は南部の士気を奮い起こすところに置かれていた。大作としては、だから空砲で脅迫することだけでよかったのである。
 この要撃は未遂に終わったが、そのように仕組んだのは大作の深謀によるものという見方もある。一味の者が密告したのは、大作の策略によるもので、このために津軽侯が参勤交代の道筋を間道に変えることが、ねらいだったというのだ。結果として、寧親はこれを恥として隠居しているから、このような見方も十分に説得力をもつのであろう。
 こういう説もある。南部と津軽、両家が早く和解をして、一致協力して北辺の防備に当たるよう、自覚をうながすのが、かれの真の目的だったという説である。
 相馬大作というもののふは、意外にも、世界の情勢に目の開けていた人物だったのかもも知れない。

 「北のラスト・サムライ」――相馬大作の供養碑は南部家菩提所のある京都・金地院にある。首塚は東京の妙縁寺(墨田区吾妻橋)にある。

 
【写真協力:岩手県二戸市 二戸市役所、 (財)盛岡観光コンベンション協会】
 
渡辺 誠 (わたなべ・まこと)
1945年、台湾・高雄生まれ。九州大学中退。
週刊誌記者を経て、文筆業。著書は『勝者への指南書』(PHP研究所)、『幕末剣客秘録』(新人物往来社)、『禅と武士道』(KKベストセラーズ)など多数。
 
【 諸藩人物伝 掲載記事一覧 】
松平春嶽
伊井大老と将軍継嗣問題で対立本文を読む
安国寺恵瓊
秀吉の器量を早くから看破本文を読む
桂小五郎
危険予知に卓越した能力を備える本文を読む
津軽武士の士風
士族が指導して育てた「青森りんご」本文を読む
伊達藩・原田甲斐
仙台伊達62万石をめぐるお家騒動。原田甲斐は佞臣か、忠臣か本文を読む
伊勢商人が江戸を席捲
豊かな海と山の幸、地理上の利点。したたかな商人魂が三井財閥の基礎を築く本文を読む
荒木又右衛門と藤堂家
伊賀上野の鍵屋之辻での三十八人斬り。藤堂家ゆかりの荒木又右衛門本文を読む
徳島藩・蜂須賀重喜
能力主義による人材登用策を採用。吉川英治の「鳴門秘帖」の舞台に本文を読む
米沢藩の風土と人 「好学」の精神をはぐくんだ人びと
一生は、「一眠りの間の夢」 それは一杯の酒を飲むほどに過ぎない 戦上手の天才、上杉謙信本文を読む
熊本藩の人と風土
河川の改修や新田の造成 熊本藩の原型を築く 土地の人々に尊敬される加藤清正本文を読む
盛岡藩 相馬大作
北のラストサムライ相馬大作 南部と津軽の和解を計画 参勤交代の帰路、津軽の寧親を襲う本文を読む
加賀藩 銭屋五兵衛
日本海を千石船で雄飛3百両の資産を集める質流れ船を使って海運業本文を読む
松江藩 松平治郷
茶どころ、菓子どころの出雲 茶道の不昧流を開く 家康の孫の血筋の七代目藩主
本文を読む
福岡藩 母里太兵衛
民謡にうたわれた「これぞほんもの」の黒田武士 とてつもなく長大な槍 もとは秀吉が愛蔵
本文を読む
熊本藩 都甲太兵衛
拷問にも耐えたぞモッコス武士 宮本武蔵もほめちぎる
本文を読む
 
 
 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.