諸藩人物伝風流大名
2007.06.11
日本海を千石船で雄飛3百万両の資産を集める質流れ船を使って海運業
渡辺 誠
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金沢市金石
銭五公園銭屋五兵衛銅像
 

 加賀は百万石とはいうけれど、江戸時代も後期となると、幕府につぐ経済力をほこるこの超大藩も、まったく財政のやりくりに窮すことになった。ことに天保期(一八三〇〜四四)の加賀藩は崩壊寸前にあったといっていいが、そんな風雪の時代に、藩の御用銀上納の求めに応じて、莫大な献金をした豪商が銭屋五兵衛、略称「銭五」である。
 「海の百万石」と俗にいう加賀の海の商人たちの中にあって、銭五は一代で巨万の富を築き上げ、そしてその一代で没落したことで異彩を放つものだが、のちに藩に没収された銭屋の全財産は一説に三百万両といい、これは加賀藩の収入の五年半分にあたる。
 度重なる御用銀の上納も、だから彼のふところに、さほど痛手とはならなかったに違いない。

 
 
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金沢城 石川門

 

 銭屋五兵衛が加賀の海商たちの上に君臨するに至ったのには、ある転機があった。
 加賀でいう「銭屋」、すなわち両替商の一軒に生まれた彼は、十七歳の時に家をついでいる。先代の五兵衛は海運業をいとなみ、いくらか成功したようだが、天明年間(一七八一〜八九)の不況のために零落する。そんな折から七代目を継承した銭五は、父が始めた醤油製造と質屋を最初のうちは営業していたけれど、二十六歳の頃には古着・呉服の衣料関係の商人に転身する。
 そのまま進めば、金沢城下の町人と武士相手の一個の在郷(ざいごう)商人として、ほそぼそと生きながらえるにすぎなかった彼に、転機をもたらしたのはほかでもない、一艘の古船である。
 後年二百艘(うち千石積みの船二十艘)の船を所有することになる銭五の持ち船の第一号となったそれは、たまたま手に入れた質流れの船で、わずかに百二十石積みであった。時に不惑をかぞえる前の年、文化八年(一八一一)、三十九歳のことだ。
 銭五はこの一艘の古船で、米の廻送を始めた。海運業に転じたのだ。
 中年、いや当時の平均寿命からすれば、下り坂にさしかかる年齢での転機であった。
  眼の前に広がる渺渺(びょうびょう)たる日本海に、そういう自分がやがて雄飛することになろうとは、もとより知る由もなかったかと思われる。

 
 
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銭屋の商い地図
 

 いったい、どうやって銭五は財力をたくわえたのだろう。
その答えは、北前船(きたまえぶね)と、主として上方(かみがた)で呼ばれる弁才(べざい)造りの船、通称「千石船」を荷船とする日本海海運業、北国(ほっこく)廻船業の仕組みにある。
 北前船は、商業機能と運送機能とが分かちがたく結ばれた、いわゆる買積(かいつみ)方式で、これによれば安く買って高く売るボロイ商売ができる。
 こんな商売である――。北前船の乗組員は新春早々に故郷をたって、陸路を旅して大坂に着くと、前年末に船囲いをしておいた船を海へ下ろす。それから「下り荷」といって、蝦夷地に運ぶ積荷――米・酒・塩・砂糖・紙・煙草・棉・筵(むしろ)などを買い集め、さて船を出して、瀬戸内から下関を通って日本海を北へと進むが、途中、寄港先でも荷を買い積みする。

 こうして今の北海道に着くのが五月の下旬ごろで、ここで積荷を売りさばいて得たカネで、今度は上方への「上り荷」の買い積みをおこなう。すなわち、昆布・数の子・布海苔(ふのり)などの海産物が主なものである。そして八月下旬に出船して九月には瀬戸内に入り、十一月中に大坂に船入りして、荷さばきをしてから、元のように船囲いをして陸路帰郷するのである。
 年に一度のこの廻船で、一艘につき、下り荷三百両・上り荷七百両、しめて千両の利ざやをはじき出したという。

 金沢の宮腰(みやのこし)――現在の金石(かないわ)という港町を本拠とした銭屋五兵衛は、この北前船をあやつって荒稼ぎをし、雪だるまのようにこえ太った海のミリオネァであった。
 
 
 


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