【趣の庭】音楽日記・欅の木漏れ日
2009.10.26     
欅の木漏れ日 Vol.25
Critical Essay on Music

世界的ピアニストはリハーサルにも賭ける
古畑任三郎 VS. 中村紘子

石塚 潤一      

古畑任三郎 第1シリーズ第6話から

 仕事から帰って居間で休んでいたら、テレビに田村正和の姿が映っていた。「古畑任三郎」の再放送、犯人役は木の実ナナ・・・見覚えのあるストーリーだ。木の実演じる世界的ピアニストが、師であり、そして愛人でもあった世界的作曲家の追悼コンサートに出演したいがため、予定されていた演奏者を心臓麻痺にみせかけて殺害する。田村演じる警部補:古畑任三郎は、ちょっとした違和感を取っ掛かりに、彼女を徹底的に追求していく・・・。

 クラシックの音楽家が登場するドラマに、専門家からみれば荒唐無稽ともとれる描写が登場するのは良くあることで、残念ながらこの作品も例外ではない。

 「古畑任三郎」の魅力といえば、まずは、脚本家の三谷幸喜がゲスト出演者の個性に合わせて造形する犯人や、主人公:古畑任三郎のキャラクターにあることは疑いなく、とりわけ、出来すぎた二枚目であるためか、どこかで決定的に現実から浮いてしまう田村正和に、この奇妙なキャラクターは絶妙にハマっている。このキャラクターを前提として展開される、古畑と犯人役とのやり取りこそが、作品の肝と考えるならば、ミステリーとしての脇の甘さや、設定のリアリティについて、あまりに細かいことを指摘するのは野暮というものだろう。

 ただ、実際に演奏会を制作したりなどして、演奏会の幕が開くまでのバックステージでの様々な苦労を知っている身としては、野暮を承知で一言注釈を付けておきたくなることもある。同じ想いであったのか、ピアニストの中村紘子もまた、日本経済新聞紙上で連載していたエッセイにて、この回の設定のリアリティについて、苦言を呈していたことを思い出す。このエッセイは、「どこか古典派(クラシック)」(中央公論社)という単行本に収録されているので、書店で手軽に求めることが出来る。

 中村の指摘は以下の三点である。1)コンサート用グランドピアノの一番低いD音の弦が切れることは、まず考えられない。「世界的な一流ピアニスト」が東京で演奏する際に使用するピアノならばなおさら。2)本番を控えてのリハーサル段階にある木の実ナナが、明らかに演奏の邪魔になるアクセサリーを着けている。3)木の実が追悼演奏した「名曲」が、あまりにも陳腐。だが、中村はミステリーの結末を明かさないという倫理を大切にしたためか、このエピソードで生じているもっとも重大な違和感について触れていない。それは、木の実演じるピアニストが本番までステージのピアノに一切触らないという点にあるのだ。

ピアニストがリハーサルで行わなくてはならないこと

 ピアノという楽器はあまりに大きく重く、容易に運搬出来るものではない。もちろん、世界の超一流のピアニストの中には、世界のどこで演奏する際でも、専門業者に自分の楽器を運ばせる人もある。ただ、そうした運搬は、厳密な温度/湿度管理の下で行う必要があり、実行に移すには膨大な経費を計上せねばならない。よって、イタリアのピアニスト:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920‐95)のような、一流の上を行く伝説的なピアニストのみが、そうした待遇を手に入れることが出来る。

 ならば大多数のピアニストは、演奏会場のホールに付属するピアノや、会場周辺の業者が持つピアノを弾くしかない。だが、ピアノというものは、大部分が木で作られていることもあり、同じ型番をもつ製品でも、完全に同じ状態であることはまず、ない。さらには管理の良し悪しといった要素も絡んできて、一千万円以上する高級ピアノを扱い一つでガタガタにするのも簡単だ。だからこそ、「某ホールのスタンウェイ(社製のピアノ)の酷い保管状態」といったことが、しばしばピアニストの間で話題となるわけである。

 こうした事情ゆえに、一流、というか真っ当なピアニストならば、本番が始まるその時まで演奏会場のピアノに触れないということは、よほど差し迫った事情でもない限り考えられない。ここぞという演奏会で良いピアノと出会えるか否か、というのは、自分の楽器を持ち歩くことを許されないピアニストにとって、常に向き合わざるをえない「賭け」なのだから。

 それでは、しばしば演奏を行っている良く知った会場のピアノなら、事前に触れずとも弾けるのではないか?「古畑任三郎」のこの回では、木の実ナナ演じるピアニストは会場となった音楽学校の理事でもある、という設定。よって、会場のピアノを弾く機会は当然過去にもあったはずで、その性質を知悉していたことだろう(「あのピアノの弦はよく切れるからチェックを怠らないように」という劇中のセリフも、その点を補強する)。それなら、ピアノを触らずに済ませても良いのではないか?

 だが、先ほど少し触れたように、ピアノは扱い一つで劣化してしまうものだ。ゆえに、同じピアノなら常に同じ状態にある、と考えるのは間違いである。それに、演奏会の前にピアノを調整する調律師の存在がある。調律師の仕事とは、ピアノの音程を整えることのみでは決してない。ピアニストの求めに応じて鍵盤のアクションなどについての微細な調整を行うのも、大切な調律師の仕事の一つなのだ。よって、過去にどのようなピアニストが弾いたかによって、ピアノの鍵盤の重さ一つとっても随分変わってくるのである。この調整が、自分の好みと異なっているとしたら、そのピアノは随分と弾きにくいものとなるだろう。

 ゆえに、世界的ピアニストならずとも、ピアニストを職業とするものには大抵懇意にしている調律師があり、重要なコンサートのリハーサルには必ず立会わせ、自分の好みを前提とした上で、当日の演奏曲目の性格に合わせて、ピアノを調整していくのである。

 ピアノは生ものに近い存在であるがゆえに、経年変化のみならず、天候、気温、湿度によっても、その響きは驚くほどに変化する。そうした変化に対応し、ピアニストの要求に応じて適切な調整を行う。調律師が担っているのは、そうした極めて大切な役割なのだ。それはあたかも、F1のピットクルーが、当日の天候、気温、路面の状況に応じて、マシンのセッティングを決定していくようなものといえるだろう。ならば、直前まで演奏会場のピアノに全く触らずにいて、本番だけ会場のピアノを弾くということは、練習走行もせずにいきなり本番のサーキットに飛び出して行くような、命知らずの行為というほかない。リハーサルの時点から、本番に繋がる勝負は始まっているのだ。

さらに音楽の深淵へ

 さらに付け加えよう。会場に置かれたピアノは、その前後の位置や、聴衆に対する角度を僅かにかえるだけでも相当にその響きを変化させる。人間が自分の声を客観的に聴くことが出来ないように(なぜなら、声を発生させる際の声帯の振動は、頭蓋の中で共鳴してしまい、それゆえに外から耳に入ってくる音と同様には知覚しえないから。たとえば録音機で録音した自分の声というものは、自分の声とはかなり異なったものとして知覚されるだろう)、ピアノの演奏においても、鍵盤の前で聴く音と会場で聴衆へと届く音とでは、随分違うものなのだ。

 よって、コンサートを行う前に、リハーサルを本番会場にて行うと同時に、信頼出来る第三者に客席に聴こえるピアノの響きをチェックしてもらうピアニストもある。もちろん、客席が観客でいっぱいになれば、その響きのバランスはさらに変わってくるのだが、この変化よりも、ピアノの位置や角度によって生じる変化の方が大きいものなのだ。

 自分の音を極限まで客観視しようと試み、それでも足りない場合は信頼出来る他人の耳をも頼りにすること。どのような方法であれ、自分の音を客観視することが出来るようになるというのが、一流への階段を上るということに違いない。演奏においては、この自分の音/音楽を客観視していくことは、様々なレベルにおいて極めて重要な問題となってくる。だが、この辺りを詳細に書き連ねて行くと、あっという間に本の1冊も書けるような分量となってしまうことだろう。よって「それはまた別の話」ということにして、この件についてはいつか改めて詳述することにしよう。


石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
 1969年、東京都出身。
 東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
 「松平頼則がのこしたもの」他の批評によって、
 2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。
 以後、読売新聞、ユリイカ、ミュージック・マガジンなどに寄稿。
 2008年からはコンサートの制作も行う。
 家業である御嶽神社の宮司でもある。

 >>著者ブログはこらちから


 


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