【趣の庭】音楽日記・欅の木漏れ日
2008.12.22     
ジョン・ケージは賭ける
「4分33秒」から偶然性へ

石塚 潤一      
■音のない作品

 1952年、ジョン・ケージは「4分33秒」を作曲。譜面上は全3楽章となっているこの作品は、楽曲のタイトルである4分33秒間、一つの音も発されることなく終了する。同年8月にピアニストのデヴィッド・チュードアによって初演された際は、当時の聴衆から驚きをもって、と、いうよりも、「君達、殴られないうちにさっさと帰りなさい」というような、極めて冷淡な態度でもって迎えられた。

 もちろん、ケージは狂人でも、単に人騒がせな人物でもない。40歳の誕生日が間近であったこの作曲家は、ピアノの弦に異物を挟んで打楽器のような音色を作り出す、「プリペアド・ピアノ」のための作品群によって、既に作曲家として十分なキャリアを持ってもいた。そうした状況で無音の作品を発表するということは、その後のキャリアを無にしかねない賭けなのだった。何より、ケージは音楽に対して常に誠実であり続けたし、彼を20世紀指折りの知性と評価することも可能なほどに、音楽そして芸術について深長な思索を終生続けることになる。ゆえに、この作品も差し迫った制作意図に基づいたものだ。そのうちの一つをもたらしたのが、ケージがハーバード大学の無響室に入った経験であった。

写真1
 

 周囲の音を完全に遮断し、中で発生する音も片端から吸収してしまう無響室。この部屋に入ってケージが気付いたことは、完全に無音であるはずの空間においても、なぜか知覚される数々の音であった。というのも、人間が生きている以上、心臓は鼓動し、体中の血管に血液を送り出し、それは片時も止まることがない。世に溢れる様々な音を遮断しても、耳はそうした体の中で生じる音を聞くものだし、たとえそうした音を全て消去したとしても、聴覚神経の伝達系の作用によって生じる、キーンと高い音が脳で知覚されてしまう。無音の世界においても、音はどこまでも人を追いかけてくる。このことがケージのような繊細な耳をもつ者にとって、どれほど衝撃的であったかは想像に難くない。

 それゆえに、「4分33秒」はコンサート会場にいる人の耳に入る全ての音/ノイズを、4分33秒分だけ区切って呈示する作品となった。ケージはこの作品で聴衆へと問いかける。無音という言葉とは裏腹に、現実には全ての音を完全に遮断することなどありえない。音が常に人間の知覚を刺激し続けるというのならば、そうした音に耳を開いてみるのも悪くないだろう、と。

■ジョン・ケージの偶然性

 また、ケージは音楽に偶然性という概念を持ち込んだ作曲家である。たとえば、五線譜についたシミを音符と見立てたり、サイコロなどを振ってその出目に基づいて音を決めたりしつつ、ケージは作品を構成していった。要は作曲作業の一部を確率的な試行に任せたということである。デタラメ?そう思われるのも無理はない。こうした作曲の方法は、ヨーロッパの作曲家、たとえばピエール・ブーレーズというヨーロッパのクラシック音楽の嫡子たる作曲家/指揮者にも全く理解されず、徹底的に批判されたのだから。

 ブーレーズは、ケージの試みを「作曲家としての責任の放棄」と切り捨てた。ブーレーズのような作曲家にとって、作曲とは己の中の音楽を出来る限り精確に譜面へと書き記し、演奏者へと自身の意図を不足なく伝えるものであり、これを可能にするためには相応の職能が必要なはずだ。この文章をお読みの方の多くの意見も同様だろう。ケージの試みを作曲というならば、そんなものは自分にだって出来るし、それこそ機械で行うことだって可能なはずだ、と。だが、話はそう簡単なものではないのだ。

 そのことは、音楽以外の現代の様々な芸術、その方法論について考えてみるなら理解できるだろう。たとえば写真。あなたがブログを立ち上げるなどの理由で、新しくデジタルカメラを購入して、写真を撮り始めるとする。購入したのは一眼レフタイプの高級品。最新のデジタルカメラはとにかく便利だ。ピントや露出を自動的に合わせてくれるのはもちろんだし、何よりも撮影した画像をその場でチェックすることも出来る。一方で、フラッシュの使用やシャッタースピード等の各種撮影条件を、全てマニュアルで操作することも可能だ。

 それゆえに、一口に写真を撮るといっても、そのスタンスは様々なものとなり得る。写真家がスタジオで何かを撮影するときのように、まずレンズを選び、ライティングから絞りとシャッタースピードの関係、モデルがいるならそのメーキャップ、撮影対象をいかにフレームに収めるかまで、全てを厳密に計算した上でシャッターを切る、というスタンスがまず考えられよう。だが、カメラ、特にデジタルカメラでの撮影においては、撮影対象もろくに決めず、時にはファインダーすら覗かずにシャッターを切り続け、撮影済みの画像の中から面白いと思えるものを選び出したり、あるいは徹底的にトリミング/加工したりすることによって、発表可能な質を担保していく、というスタンスもありえる。

 後者のスタンスを表現として認められない方は、おそらく現代にはいらっしゃらないだろう。既にお気づきの通り、ここでの前者のスタンスがブーレーズの作曲に、後者がケージの作曲へと対応しているわけだ。一見、デタラメな「偶然による結果」を作品へと纏め上げるケージ。しかし、同時にケージは、その偶然がもっとも面白い形で作品として結実するように常に心を配ってもいるのだ。そして、その段階で鍵となっているのが、ケージが作曲に導入した確率的な過程がもつ、「ゆらぎ」に他ならない。

■「大数の法則」とゆらぎ

 では、このゆらぎとは何だろう。例として、2つのサイコロを振ってみた場合を考えてみる。2つのサイコロの目の和が偶数になる確率と、奇数になる確率は全く同一。つまり2分の1である。しかしながらこれは、目の和が偶数になる回があったら次回は奇数が出る、ということでないことは良くご存知だろう。「確率が2分の1」ということは、このサイコロを振るという行為をどこまでも続けていくと、目の和が偶数(奇数)になる回数が、振った全回数の2分の1へと次第に近づいていく、ということなのだ。

 これを「大数の法則」という。わかりにくいかも知れないのでさらに砕いて説明しよう。例えば、サイコロを振る回数が20回なら、その半数は10回である。だが、目の和が偶数になる回、奇数になる回が、常に丁度10回ずつになるかといえばそんなことはなく、偶数が奇数より余計に、11回、あるいは12回出たり、逆に少なく8回9回しか出なかったりすることもあり得る。ただし、この偏りがさらに顕著に、つまりは13回14回と偶数が出たり、あるいは7回6回しか出なかったりする場合は相当に稀少になるし、偶数が20回続くということになると、これはもうイカサマというしかない。ただ、2割ほどの回数のバラつきは普通に存在するわけで、このバラつきこそを「ゆらぎ」というのである。

 だが、このゆらぎはサイコロを振る回数が増えるにしたがって小さくなっていく。具体的にはサイコロを振る回数の平方根に比例するのだが、振る回数に比べてその平方根の増加率は小さく、振る回数が大きくなるに従ってゆらぎは目立たなくなる。たとえば、サイコロを2万回振った場合、20回振った場合のように2割のゆらぎが出て、1万2千回偶数が出る確率はほぼ0と言って良いほどに微小である。1割、いや5分のゆらぎが出て、1万5百回偶数が出ることすら奇蹟といって良い。このように、ゆらぎの幅というのは試行回数が多くなればなるほど、全体に対して小さくなり、最終的には消えてしまう。これが「大数の法則」のポイントである。

 賭博とはこのゆらぎとの戯れであると考えることもできる。上で説明したように、丁半博打で丁半それぞれが出る確率は常に2分の1。だが、上で説明したように、20回壷を振った場合、丁が半より4回余計に出ることは普通にある。このゆらぎが時に人を惑わし賭博にのめり込ますのだ。逆に、壷振りを延々と続けていけば、最終的にどちらの目が出る回数もさほど変わらなくなる。ゆえにある程度の見通しが立てられ、ギャンブル性も半減してしまうだろう。賭博というものは常に限られた回数の中で行われるがゆえに、たまらなく魅力的で、そして焼け付くほどに怖いものとなる(これは、競馬で破産する人間はいても、JRAがつぶれることはない理由でもある)。

 さて、話が脱線したようだが、ケージがサイコロで音を決めるような「偶然性による作曲」を行いつつも、「作曲家としての責任」も同時に果たしえたのは、確率的な過程が持つゆらぎが最大限に作品へと反映する工夫を怠らなかったからなのだ。特に、単位時間に演奏される音の数。偶然性による作曲では、これがあまりに多いと、作曲のプロセスに内在するゆらぎを聴き手が知覚するどころではなく、どこを聴いても同じな、ただデタラメなもののように思われるだろう。それは、事象があまりに多くなると、それに応じてゆらぎが消えるという大数の法則にも合致する結果である。ゆえにケージは、作品の中での音の密度を極めて薄いものとすることで、偶然性がもつゆらぎが、あたかも自然の気まぐれの如く作品へと反映するように、驚くほどの繊細さでもって気を配っているのだ。



石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
 1969年、東京都出身。
 東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
 「松平頼則がのこしたもの」他の批評によって、
 2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。
 以後、読売新聞、ミュージック・マガジンなどに寄稿。
 2008年からはコンサートの制作も行う。
 家業である御嶽神社の宮司でもある。

【音楽評論 掲載記事一覧 】
■時計の針音は何拍子か?
 ストラヴィンスキーの晩年作品を聴く
本文を読む
■ほとんど何もない
 リュク・フェラーリの音楽
本文を読む
■ジョン・ケージは賭ける
 「4分33秒」から偶然性へ
本文を読む
■高度成長の女
 雪村いづみとその時代
本文を読む
■古の自動演奏機械がポリリズムで踊る
 コンロン・ナンカロウの仕事
本文を読む
■切り捨てられた地方で文化を守る
 宮崎県諸塚村戸下神楽のこと
本文を読む
■映像/ナレーション/音楽、そしてイメージ
 ビデオデッキが無かったあの頃
本文を読む
■チューバとともに
 低音が作るオーケストラの魅力
本文を読む
■特別養護老人ホームの即興音楽家たち
 音楽家:野村誠の試み
本文を読む
■松平頼則を聴いてみませんか? 本文を読む
■叔父のことを書く
 桜の季節とともに想い出す
 私が音楽と出会った頃
本文を読む
■雨音の上のドラマ
 山中貞雄の「人情紙風船」を《聴く》
本文を読む
■カールハインツ・シュットクハウゼンへの哀悼(後編) 本文を読む
■カールハインツ・シュットクハウゼンへの哀悼(前編) 本文を読む
■映画にとっての音の話 本文を読む
■部分と全体 本文を読む
エグベルト・ジスモンチの倫理 本文を読む
川島雄三作品と音楽 本文を読む
22分間の奇跡
 アストル・ピアソラが目指したもの
本文を読む
古楽演奏と
 少年モーツァルトの素顔と
本文を読む
青く輝くサファイアのような海に
 寄せては返すチェロの波
 海軍服のリムスキー=コルサコフ
本文を読む
 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.