【趣の庭】音楽日記・欅の木漏れ日
2008.6.9
特別養護老人ホームの
即興音楽家たち

音楽家:野村誠の試み




石塚 潤一   

■21世紀の即興音楽

 即興演奏というものをご存知だろうか。ロマン派から近代のクラシックの音楽のように、譜面にびっしりと演奏すべきことが書き込まれている音楽ではなく、あたかも「無から有を生む」ように、その場の感興を即座に形にしていくような演奏のあり方。多くの方にとって、即興といえばまずジャズの演奏だろう。アドリブソロが白熱しつつ、テーマを巧みに変奏していく。これは当然、譜面に細かく指示されているわけではないから、ミュージシャンたちは譜面を見る必要がない。それゆえ、お互いの顔を見つめ合いつつ瞬時に相手に反応していく様が、クラシックの演奏にはない格好よさを演出したりもするわけである。

 だが、ジャズを含めた一般に聴かれる即興は、一定のお約束の中で演奏されているものが殆ど(一部のフリージャズを除けば)で、決して「無から有を生む」といったものではない。簡単に種明かしをするならば、コード進行という響きの流れや、モード(旋法)という型が確固として存在し、それを当意即妙に組み合わせているというのが実状なのだ。例えるならば、将棋において「定石」を組み合わせることで、次の差し手を発想するようなもの。単なる個々の駒の動かし方ではなく、ある問題に対応するための手はず=定石が無数にチャート化されており、これに習熟し自在に組み合わせることで、より先の手が見通せるようになるというわけだ。

 このような舞台裏を知るならば、即興演奏もまた、譜面に書かれた音楽を演奏するのと同じ、あるいはそれ以上に専門的な訓練が必要ということになるだろう。そもそも、何の準備もなく全くデタラメに楽器を演奏しても、そうそう面白い結果に結びつくものではない。楽器の心得がある人なら試してみると良いと思う。録音した上で客観的に聴いてみると、展開する音楽があまりに一本調子なため嫌気がさしてくるだろう。多くの人間が同時に即興を行う集団即興となるとなおさらである。しかしながら、即興がそうしたゲームの達人たちのみに許されたものではないことも確かなのだ。ほとんど音楽の素人であるような人々が集まって行う即興、現代とはそうした音楽が音楽としての市民権を持った時代とも言えるのである。

 1960年代から70年代に差し掛かるころ、いわゆるプロフェッショナルの技術というものを相対化し、隙間の多いアマチュアの演奏の魅力を再発見しようという動きが生まれようとしていた。もちろんこれには、多分に政治的な意味も含まれていたのだが、敢えて楽器経験のない人間を交えてアンサンブルを編成するような試みが次々に行われ、技術的に優れたものが良いものである、という単純な価値観への反逆が試みられていた。

 「何をバカなことを、技術的に優れたものが良いのは決まっているではないか?」という向きには、クラシックだけでなくポピュラー音楽のことを考慮に入れてみることをお勧めしたい。たとえば、ビートルズの音楽は20世紀のどんなクラシック音楽家(たとえばカラヤンやバーンスタインなど)より広く流布されるに至ったが、彼らは決して一流のクラシック演奏家に比肩するような技術の持ち主ではなかった。そうした音楽が世界的に愛され評価されている。音楽の「良さ」をはかる尺度は技術的精度だけではないのではないか?さらには、技術的な達成とは無関係に楽しめるような音楽のかたちが存在するのではないか?ポピュラー音楽の隆盛は、そうした問いをも聴衆へと突きつけたのだ。



 さらにそこに即興が絡んでくる。そもそも、20世紀に至ってクラシック畑の音楽は複雑な譜面でがんじがらめになり、奏者の自発性を奪ってしまったという反省がなされていた。もちろん、この連載の第3回で説明したように、譜面に書くことによって初めて可能となる表現もあるし、複雑さで奏者を極限まで追い込むような作品にも素晴らしい作品がある。だが、音楽に対する価値観が多様化する中で、即興というものを見直してもっと隙間の多い音楽を作り出そうという立場が、クラシック畑の音楽家のうちにも生まれてきたことにも目を向けておきたい。

■老人ホームに音楽がひびく

 こうした経緯もあり、世紀が変わった現在では、ジャズ演奏などからイメージされるより、はるかに隙間の多い即興演奏が普通に試みられるようになった。技術的な精度は高くなくとも、強烈なコンセプトや上手い工夫で単調化せずに続けられる即興。確かに面白そうだし、可能性もありそうだ。だが、老人ホームのお年寄りたちによる即興があると聞けば、誰もが驚かれるのではないか?

 野村誠と大沢久子の著書である「老人ホームに音楽がひびく 作曲家になったお年寄り」(晶文社)では、音楽家の野村誠が横浜市の老人ホームで行った驚くべき集団即興演奏と、それを受けての共同作曲の様子が報告されている。1968年に生まれ、京都大学理学部在学中に大手レコード会社のバンドオーディションに合格した野村だが、クラシック/現代音楽畑での活躍も多い。そんな野村が共同作曲の相手として選んだのが、老人ホーム、それも特別養護老人ホームのお年寄りたちだった。

 言うまでもなく、特別養護老人ホームとは24時間の介護が必要なお年寄りだけが入居できる場所である。通常のコミュニケーションもままならない人たちも多いだろう。そのような場所で即興演奏を行い、その結果を少しずつ作品に纏め上げていく。そんなことが可能だとはにわかには信じられない。だが、野村が老人ホームへと足繁く通って共同作業を続けるうちに、お年寄りたちは驚くほどの創造性を発揮しはじめるのだ。

 24時間介護が必要な体とはいえ、豊かな人生経験をもつお年寄りたち。長い人生の中に堆積した音楽経験の片鱗が、例えばデタラメ叩かれる打楽器を伴奏に、ふと戦時中に南方で覚えた唄が飛び出てくるように、少しずつ表に出てくるのである。もちろんこれは、お年寄りを共同作業の相手ととらえ、決して相手に対する敬意を忘れることのない野村の態度があってのものだろう。決して自分の音楽を押し付けず、相手の自主性を尊重し、作業の過程で自分の音楽観そのものを捉え直したりする。相手からの影響を受け付けない共同作業になど何の意味のなく、共同作業を行う以上、相手が面白いものを提案してきたならそれに柔軟に対処/吸収するのは当然のことだ。だが、相手が特養老人ホームのお年寄りたちであることを考えれば、これは決して易しいことではない。



■自主性の尊重と放任との間に

 「なるほど、面白い。早速、うちの老人ホームでもやってみよう。お年寄りへの敬意も、粘り強くお年寄りに付き合う覚悟も、決して野村に引けをとるとは思わないし」。本稿をお読みになり、そう考えた方もいらっしゃるかもしれない。しかしながら、具体的な行動に移れば誰にでもこの本にあるような成果を手に入れられるかといえば、それは違うのではないかと思う。この試みの成功は、何よりも野村の音楽家としての資質に拠っている。

 そもそも、お年寄りの自主性に敬意をもち共同作業を進めるということは、決して、好き勝手なことをやってもらえるように放任しておくということではない。自主性の尊重と放任、両者はしばしば致命的に混同されているが、容易に越えられない大河で隔てられている。自主性を尊重するということは、綿密な管理計画のもとに十全のケアを行うこと以上に手がかかるものだ。想像してみて頂きたい。計画があれば、どのような準備すれば良いか粗方見当がつくものだが、自主性を尊重すればするほどに「予想外の事態」へと対処する必要が増えてくる。自主性の尊重とは、準備の及ばない何かが起こることへの期待でもある、ならばどうして放任など出来ようか。

 これは子供の教育へと置き換えてみれば容易に理解出来るだろう。自主性を尊重して子供を伸ばそうと考えるなら、常に子供を見守り、何かアクションを起こしたらいち早くそれに気付いてやらなくてはならない。その上で、子供の行動の背後にある諸々を洞察し、大人としての助言を与える。叱ることはもちろん、褒めることも実は極めて難しいことで、容易にマニュアル化できるものではない。「褒めて伸ばす」と子供が何をやっても褒めるが如き態度は最低で、これでは子供をスポイルしているのと何ら変わらないだろう。褒めるべきポイントを素早く見抜き、それを着実に、タイミングを逸さずに褒めるからこそ、子供のモチベーションは上がるわけだ。

 ゆえに、この本に記された試みから学ぶべきは、何よりも野村の気付きの細やかさであり、何事も見逃すまいと常に周囲へと注意を払い続ける仕事人としての態度である。その長く掛け替えのない人生で、特養老人ホームのお年寄りたちが積み重ねてきた音楽的知は、当初はあまりにも慎ましやかに、常人には目に留まらないような小さな徴となって現われる。そのような小さな一歩でも、踏み出す本人にとっては大きな冒険なのに違いない。これを奇蹟と呼ぶほどに豊かな成果へとつなげて行くには、日々の演奏の中でお年寄りたちが踏み出す一歩を見逃さず、これを認めつつ的確な助言を与えていくことが必要となる。ほとんど何にもない状態から何かを作り出そうというときは、たとえ、それがどんなに小さな成果でも見つけ出してそれを喜ぶ細やかさが必要なのだ。そしてその細やかさは、野村が音楽家としての活動の中で育んできた、彼の音楽性の根幹を成してもいるのだ。
 
 
   
石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
 1969年、東京都出身。
 東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
 2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。
 御嶽神社の宮司を務める。
 著者ブログはこらちから

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