【趣の庭】音楽日記・欅の木漏れ日
2008.05.12
松平頼則を
聴いてみませんか?



 石塚 潤一  

■華族の御曹司:作曲家として立つ

 1925年。この年は、フランスのピアニスト:ジル=マルシェックスが帝国ホテルにて開いた6夜に渡る演奏会によって、日本の音楽受容史において特筆されるべき年になった。この連続演奏会にて日本初演された楽曲は実に33曲。後に、梶井基次郎はこの一連の演奏会での印象をもとに掌編小説:「器楽的幻覚」を書き、次のような書き出しをもって始めている。
 ある秋仏蘭西から来た年若い洋琴家がその国の伝統的な技巧で豊富な数の楽曲を冬にかけて演奏して行ったことがあった。そのなかには独逸の古典的な曲目もあったが、これまで噂ばかりで稀にしか聴けなかった仏蘭西系統の作品がもたらされていた。私が聴いたのは何週間にもわたる六回の演奏会であったが、それはホテルのホールが会場だったので聴衆も少なく、そのため静かなこんもりした感じのなかで聴くことが出来た。回数を積むにつれて私は会場にも、周囲の聴衆の頭や横顔の恰好にも慣れて、教室へ出るような親しさを感じた。そしてそのような制度の音楽会を好もしく思った。
 この「教室」のごときコンサートに衝撃を受け、音楽家となることを決意した青年がいた。松平頼則(まつだいら・よりつね:1907-2001)である。この古風な名前から想像される通り、彼は徳川家康の11男:頼房より続く、常陸府中(石岡)藩主直系:松平頼孝(よりなり)子爵の一人息子だった。彼の生家である東京小石川区の屋敷は、敷地2700坪にも及ぶ広大なものだったという。

 華族の御曹司らしく学習院初等科に通った松平は、暁星中学を経て、コンサート当時には、慶應義塾大学仏文科へと進んでいた。さて、この「教室」において松平はフランス音楽の魅力を教えられ、さらには、音楽作品を個々の作品として鑑賞するだけではなく、音楽史という流れの中に位置付けるという視点を獲得したのだった。そして、音楽史の突端にあるものとして、自分もその流れを繋ぐ作品を作ること。松平の音楽家としてのキャリアが、こうした確固とした目標の下で開始されたことは重要である。以後、2001年に94歳で没するまで、松平は「突端の作曲家」としての矜持を持ち続けることになる。



 さて、このように始まった松平のキャリアだが、その後の松平に潤沢な資金を背景にしての洋行といった、貴族的で華やかな未来が待っていたかといえば、そうではなかった。

 原因の一つは「鳥」だ。宮内省の狩猟官をつとめていた父頼孝は、鳥の剥製の熱心なコレクターでもあり、自宅に標本館を建造するほどの人物であった。子爵家の豊富な資金は、当然、このコレクションへと湯水のようにつぎ込まれることになる。と同時に、浮世離れした御仁を言葉巧みに騙す人間というのはどの時代にもいるもの、ちょうど頼則が音楽への道を志す頃には松平家の経済状態はすっかり斜陽となり、広大な自宅も膨大な負債を処理するために人手に渡ってしまった。

 子爵家の御曹司としての生活から一転、松平を待ち受けていた伝説的な窮乏生活。そうした中、ヨーロッパから届く最新の音楽の譜面を筆写することで、松平は新しい音楽言語を身につけていく。当初はピアニストとしても活動していたが、3回リサイタルを開いた時点で限界を感じ、作曲へと専念したのだ。この貧窮生活が決して不幸なものではなかった、などという表現は当事者からしてみれば噴飯ものかも知れない。しかしながら、日本国内に留まり、自分なりの方法で譜面を読み続けたことが、松平独自の作風を形成したのは、紛れもない事実である。

■雅楽と西洋音楽と

 1920年代後半から30年代にかけて、音楽史の突端にあることを自覚した多くの日本人作曲家が、自国の音楽を西欧の音楽と結びつけようと努めた。当時、モーリス・ラヴェルはスペイン音楽、さらには東洋の音楽を自作に取り込むことで、西洋音楽史の新しい局面を切り開いていた。ならば、ラヴェルとは逆に、東洋の側からヨーロッパとの融合目指しても、同等の仕事が可能になるのではないか?しかし、西洋と東洋の音楽はその成り立ちからしてかなり違う。これを無理なく結びつけるには双方に対する深い理解と、この違いを克服するアイディアが必要だった。

 松平もまた、自身が魅了された西欧、特にフランスの音楽と自国の音楽とを結びつけるべく奮闘していた。が、同時に彼は泥臭い情念的な表現を心から嫌ってもいた。ゆえに三味線の音が何よりも嫌い。松平が素材として打ち込める日本の音楽は限られたものだった。そうした松平の心を捉えたのが雅楽である。1942年以降、松平は死ぬまでこの素材に寄り添い続けることになる。だが、このことを松平の貴族的な出自と、単純に結びつけるべきではない。

 確かに雅楽は古来より殿上人の音楽で、当時の日本でも一般人はそうそう耳にすることがない音楽ではあった、が、松平が愛したのは、あくまでも情念的な表現とは関わり無く淡々と流れていく、雅楽という音楽の佇まいだった。極限まで引き伸ばされ、確固たる形を取ることなくふわふわと流れていく時間。そうした雅楽のエッセンスを、松平はまず新古典主義というクラシックの潮流へと結び付けようとする。


 
 肥大し爛熟したロマン派クラシックの歴史は、これもまた情念化への歴史だったということが出来るだろう。そもそも、後期ロマン派とは、ワグナーというコテコテの激情的作曲家の末裔たちであり、その後期ロマン派の影響下に生まれたシェーンベルクもまた、無調という新しい音楽言語へ突入しつつも、極めて情念的(=表現主義的)な作品を書いていたことは変わらない。

 そうした思潮に対して、音に纏わる情念を一旦排し、音の運動体としての音楽の愉悦を楽しもうとする思潮が新古典主義だった。代表的な作曲家としては、「プルチネッラ」以降のストラヴィンスキー、「クープランの墓」のラヴェル、フランス6人組の作曲家:中でもプーランクが挙げられる。

 彼らから松平が受けた影響は絶大だった。松平の最も初期の室内楽曲「フリュートとピアノのためのソナチネ」には、プーランクの「オーボエ・バソン・ピアノのためのトリオ」からの影響が明白であるし、「ピアノトリオ」には、これほどあからさまではないもののストラヴィンスキーからの影響が見て取れる。「南部子守唄を主題とするピアノとオルケストル(オーケストラ)のための変奏曲」のピアノは明らかにラヴェルだ。だが、松平の作品には、通常の新古典主義音楽に見られない特色が一つある。



 松平は音楽を前へ前へと進めていくことを好まない。音の運動体としての愉悦作り上げつつも、あくまでも先へと音楽を進行させようとするのが新古典音楽だが、松平作品にはそうした進行感が決定的に欠けている。美しく厚みのある和音がいつまでも連なっていく松平の新古典作品は、積極的に先を目指すというよりは、瞬間ごとにクリスタルガラスのように結晶化していく。さらに、過剰なほどの細部の彫琢が、その印象を揺るぎないものとするのだ。

 だが、これこそが松平が雅楽より得たものなのである。新古典的主義的な音の遊戯を、雅楽の引き伸ばされた時間に閉じ込めれば、終わり無くふわふわと漂う音世界を作り上げることが出来る。これは西洋の音楽(新古典主義音楽)と日本の音楽(雅楽)との奇跡的な結合なのだ。この奇跡的結合ゆえに、1940年代の松平の室内楽作品、中でも「ピアノトリオ」は、日本音楽史上屈指の室内楽作品となり得たのである。

 この後、松平頼則は、さらに12音技法と雅楽とを結びつけることに開眼、この手法を3段飛びに深化させて、ついにはメシアン・ブーレーズといった西欧音楽の嫡子たる作曲家に影響すら与える地平に立つ。ここでも、雅楽由来のふわふわと漂うが如き音世界を、巧みに西洋の音楽語法と融合させる松平の手腕が見られるのだが、本稿はここまでで終わることとして、この戦後日本を代表するウルトラ・モダニストとしての松平の、貧しく幸福な人生については、筆者が 過去に書いた文章をご参照頂ければと思う

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 また、上述の「フリュートとピアノのためのソナチネ」「ピアノトリオ」を含むコンサートを、7月16日、東京荻窪の杉並公会堂にて開催する。興味のある向きには是非お運び頂きたい。ここまでお読みになり「結局は宣伝か」とガッカリされた方、申し訳ない。しかしながら、筆者が音楽批評家としてどうしても成し遂げたい仕事の一つが、この松平頼則という未だ知られざる天才作曲家を広く世間に紹介することなのだ。そのような事情を汲んで頂き、今回のみは特別なこととして御寛恕頂ければと思う。


石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
 1969年、東京都出身。
 東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
 2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。
 御嶽神社の宮司を務める。
 著者ブログはこらちから

 


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