【趣の庭】音楽日記・欅の木漏れ日
2008.04.07
石塚 潤一
 

 音楽批評なんてものを仕事にしているが、音楽的な家庭に育ったという自覚はない。小さな頃は、身のまわりにクラシックのレコードなどなかったし、茶の間におけるテレビのチャンネルの全権を握っていた父は、家族に歌番組を見せることすらなかった。

 だが、そんな自宅にも何故かピアノがあり、一応習いに行かされてはいた。ピアノを買って子供に習わせることが流行った時期だったからだろう。ただ、家庭環境が家庭環境なだけにモチベーションの持ちようがない。1週間全くピアノに触らずレッスンへと行ったり、レッスン自体に行かなかったり、といったことが常態化し、ピアノの教師が「これではお金は頂けない」と月謝を返しに来ることすらあった。

 学校での音楽鑑賞やピアノのレッスンの時間を別にすれば、初めてクラシックのレコードを聴いたのは叔父の家だったように思う。この家は随分前に建て替えられてしまったが、日の光が絨毯に反射して暖かな赤色に満たされた洋間に、古いステレオが置かれていたことを今でも思い出すことが出来る。しばらくして、私が小学校の高学年になった頃だっただろうか、そのステレオを自宅に貰い受けることになったが、その理由についての記憶はない。おそらく、私が叔父にとって初めての甥だったからだろう。

 気前が良いというか何というか、叔父はステレオに自分のレコードコレクションも付けてくれていて、中学に入るまで、私が聴くレコードは一つの例外なくこの中から選ばれていた。よって、フルトヴェングラー、ワルター、ライナー、バーンスタインといった音楽家について教え、私の音楽性の根幹を作り上げたのは叔父だったということになる。私が多少なりとも自発的に音楽と付き合うようになったのは、中学生になり吹奏楽部に入部した頃からなのだが、叔父のレコードがなければこの部を選ぶこともなかったはずだ。

 
 

 そんな叔父の頬の裏から癌細胞が発見され、日大の板橋病院に入院したのは4年前の夏のことだった。叔父の姉であるところの私の母はせっせと見舞いに通い、ベッドの上で退屈している叔父のため、差し入れる本の選択を私が仰せつかった。「この際、ゆっくりと時代小説でも読みたいね」と語る叔父に藤沢周平でもどうかと勧めると、「藤沢の本は全部読んでいる」とのこと。差し入れる本を片端から読まれてしまうので、山岡荘八の「徳川家康」でもどうかと勧めると、「いつまで入院させておく気だ」と苦笑された。たまたま池波正太郎は未開拓だったというので「剣客商売」シリーズを持っていくと、これは叔父の好みに合ったようで、このシリーズを中心に差し入れを続けることになった。

 秋になり、「剣客商売」の8冊目を読み終わった頃に叔父の退院が決まった。次巻以降は自宅に差し入れようと思ったが、その前後から叔父の顔には抗癌剤の投与の副作用から麻痺が出て、右目にしばしば眼帯をするようになっていた。まばたきが出来ず、眼が乾いてしまうための処置だという。というわけで、「剣客商売」の差し入れは、眼帯が取れるのを待ってから、と約束して帰ってきた。病院食に飽き飽きしていた叔父と鮨を食べにいく約束をしてもいたが、これも麻痺が治るまで持ち越そうということになった。それでも、叔父が自宅に戻り仕事が出来るようになったことを誰もが喜んでいた。

 丸一年は何事もなく過ぎ、転移の兆候がなく85%の確率でこのまま快復するだろうと医者は言うものの、叔父の顔の麻痺は取れないままだった。そんな中で迎えた一昨年の3月、右の眼球のうしろ辺りに癌が転移していると診断され、叔父は再び入院することになった。それでも、1週間程で自宅に帰され、自宅で薬を飲みながら4月の再検査を待つというから、そうたいしたことはないのだと思っていた。

 そうして迎えた4月1日。誰もが気の利いた嘘をつこうと頭を捻っているこの日、出先で携帯電話に叔父の訃報を受けた。自宅で療養中だった叔父は、夕食前に一休みすると寝室に引き上げ、そのまま亡くなっていたのだという。というわけで、この日、私はひとつも嘘をつくことが出来なかったけれど、2年前に交わした約束が2つ嘘になった。

 仕事を終わらせ叔父のもとへ駆けつけ、検死のために全裸にされ、毛布を1枚かけられただけの叔父の遺体に対面した。監察医は、叔父の右目は瞳孔が開ききっていて、随分前から何も見えなかったはずだ、と言う。そんなことは、生活を共にしていた叔父の家族も、もちろん私も、全く知りはしなかった。

 
石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
1969年、東京都出身。
東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。御嶽神社の宮司を務める。
 


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