【趣の庭】 音楽日記・欅の木漏れ日
2007.11.26
 
石塚 潤一
 
 この連載の第4回で、川島雄三監督の「雁の寺」につけられた、極めて特異で魅力的な音楽についてご紹介した。しかしながら、映画/映像作品の「サウンドトラック」に入っている「音」は、音楽ばかりではない。音楽だけでなく音声もまた、映像作品において極めて重要な役割を担っており、そこには地味ながらも作り手の様々な趣向が凝らされている。このことを少し意識するだけで、映画/映像の見方がガラリと変わるはずだ。朝食を採りながら観ていたNHKの連続ドラマ「ちりとてちん」の中に、このことを説明するのにうってつけのシーンがあったのでここにご紹介しようかと思う。
 
 
 
 

 多くの方がご存知の通り、これは女流落語家を目指す女性を主人公とする物語。高校を卒業しても、自分が本当に打ち込めるものが見つからず、「新しい自分になるため」に若狭より大阪へ出てきたヒロインがひょんなことから零落した落語家の家に下宿し・・・、といった粗筋については、NHKのホームページを参照頂くとして、ここではシーンの概要を把握するための必要最低限の説明に留めよう。

 問題のシーンは、主人公ではなく、後に彼女の兄弟子となる脇役にまつわるものである。後ろ髪を引かれながらも落語と決別し、ディスカウントショップで働いて3年ほどになる元落語家(桂吉弥:以下Aとする)は、主人公が持ち込んだ製品の修理が完了したことを知らせるべく電話をかける。主人公は落語家の家に下宿しており、自室に電話を引いているわけではない。それゆえ、Aはそれと知らずに、尊敬してやまないかつての師匠(渡瀬恒彦:以下Bとする)の家へ電話をかけることとなる。電話口に出たBの声にAは凍りつき、そのあまりの唐突さから要件すら伝えられず、無言電話と間違われて電話を切られてしまう。電話が切れた後、Aは懐かしさ受話器を抱えて涙ぐむ。

 

 この一連の流れを音という観点から検証してみよう。Aが電話をかけているのはディスカウントショップの店内ゆえ、最初はAの周囲の雑音がそれなりの大きさで拾われている。だが、カットが変わり、Bが電話に出るのを捉えると同時に周囲の雑音が消え、無言の電話をいぶかしむBの声だけが響き続ける。しばらくの後、カットはディスカウントショップで受話器を持つAへと戻るが、周囲の雑音は一呼吸遅れ、徐々に大きくなるような形で戻ってくる。つまり、カットの変化と周囲の雑音の扱いに齟齬があるのである。

 この音の演出は、人間が身の回りで発生する音を均等に聴いているわけではなく、聴くべき音を選別しているという生理に基づいている。途中から雑音を消してしまうことによって、Bの声を聴いてしまったAの心の衝撃を上手く表現しているのである。Aの主観に沿った音声を視聴者に聞かせるならば、その感情をも共有させることが出来るだろう。

 以上、いささか長い枕であったが、映像作品における音声には作り手の創意が入り込む余地が多々あり、単にロケ現場で音を拾うだけの仕事ではないのだと、お分かり頂けたことと思う。上のような効果を厳密に計算しつつ仕事をするならば、映像に音をつけるという作業は、映像音楽を作曲するという作業よりも、繊細で音楽的なものになり得る。ゆえに、映像にとっての「音」を考えるならば、音声にも音楽と同等の敬意が払われるべきなのだ。

 
 
 
 

 さて、20世紀とは、テクノロジーが芸術のあり方にも大きな影響を与えた世紀であった。写真が絵画のあり方を変えたように、録音テクノロジーの登場もまた、あらゆる局面において音楽のあり方を一変させてしまった。録音によって、音楽はレコード・CDへパッケージされて商品棚に並び、フルトヴェングラーやマイルス・ディヴィス、ジョン・レノンといった、今は亡き音楽家の演奏を聴くことも出来るようになった。

 確かにそれは劇的な変化であった、が、録音が「音楽の再現性」を新しい段階へと引き上げることによって、前代未聞の音楽のかたちを作り上げたことにも注意が払われるべきである。かつて、音楽として認知されていたものといえば、譜面を書くことで、あるいは口伝で伝えられることで、作品としての再現性を獲得できたもののみだった。しかしながら、録音テクノロジーはどのような音でも(一応)再現してしまう。そもそも「楽音」と「雑音」の違いはどこにあるのだろうか?音としての聴きやすさだろうか。しかし、下手なオーケストラの演奏を聴くよりも、深い森の中で耳を澄まして周囲の「雑音」を聴いた方が気持良い、ということは、しばしば、ある。「楽音」と「雑音」を隔てるものは、詰まるところ再現性の有無だったのではないだろうか?

 録音テクノロジーは、街中の音声や森のざわめきを、テープに録音することで何度でも再現可能なものとしまった。これに美的価値を見出せるとすれば、音楽と呼ぶことに何の不都合があるだろう?聴きたいときにいつでも聴ける「雑音」。これはもはや音楽なのだ。これによって、音楽の概念は広がり、楽音と雑音とを区別する敷居が確実に一つ取り払われることになった。ゆえに、「音楽と音は録音テクノロジーの下において等価である」。

 1948年に、フランスの作曲家:ピエール・シェフェールによって行われた具体音楽(ミュジーク・コンクレート)の試みは、まさにこれの実現といえるだろう。シェフェールは、走る汽車の音を磁気テープの上でオブジェのように加工し、これを音楽として発表したことで知られる。この試みは当時の音楽界に衝撃をもって迎えられ、日本においても黛敏郎・武満徹をはじめとした多くの作曲家がそれに続いた。だが、こうした実験的な音のあり方を極めようという冒険者は、音楽界だけでなく映画界にも存在したのである。前段にて紹介した「ちりとてちん」の音響は、その系譜に連なるものといえるだろう。

 

 ほとんど全ての映像作品において、音声の仕事とは作品へとリアリティに奉仕することにある。重い金属音を重ねればハリボテのセットでも鋼鉄で作られているかのような印象を与えられるし、CGで作った恐竜がいかにスルスルと動こうとも、足音のつけようによって重量感を出すことが出来るだろう。優れた音響は、本物以上にもっともらしい「リアル」を創出する。しかし、それとは全く異なった観点から映画に音声がつけられることがある。その最高の例を一つご紹介することによって、本稿を締めくくることとしよう。

 1952年、ジャック・タチは「ぼくの伯父さんの休暇」を制作する。パントマイム芸より出発したこのフランスの喜劇映画監督を、ゴダールはフランスのネオリアリズムの始点とすら評した。さらにゴダールの評を引こう。「ジャック・タチに喜劇のセンスがあるのは、彼には奇妙なものに対するセンスがあるからなのだ」。そのセンスは音響の選択においても遺憾なく発揮されている。

 この、海辺の別荘地で展開するこのコメディ映画につけられた音声は、一見穏やかだがその実極めて特異な代物である。その舞台設定ゆえに、海辺の風景につけられた波音や遊ぶ子供たちの声がしばしば聴かれるが、ここでの音声には、海辺で録音したものではなく、敢えて残響過多な場所を選んで録音したかのような過剰さがまとわりついている。だが、この過剰さがネオリアリズム的な映画の方向性と絶妙なバランスの上で対立することによって、映画を鮮やかにファンタジーへと飛翔させていく。この例に限らず、この映画に出てくる「音」は、どこかで「リアルな」音とは微妙に、そして決定的に異なっている。ゆえにこの作品は、一つの優れたコメディ映画であると同時に、映像と独立した論理を音声へと持ち込むことが新たな映画表現と結びつくことを証明した、極めて前衛的な仕事とも言えるのだ。

 
 
石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
1969年、東京都出身。
東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。御嶽神社の宮司を務める。
 


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