【趣の庭】 音楽日記・欅の木漏れ日
2007.10.22
 
石塚 潤一
 
 
 
 

 少々個人的かつ挑発的な話より筆を起こすことをお許し頂きたいのだが、私は「音楽には国境がない」とか、「音楽は聴けば誰にでもわかる」といったナイーブな物言いをする人を信用出来ない。そうした物言いをするか否かで、その人の話、もちろん音楽についての話だが、の信頼性すらかなりな精度で評価できると考えている。

 というのも、ジャンルを問わず様々な音楽を聴くように努め、そしてその中の幾つかについて文章を書いてきた経験から、どのような音楽ジャンルもそれぞれ固有の文脈の上に存在しており、その文脈がいかに強固に、聴き手の音楽性、楽しみ方、音楽の理解、等々を縛っているのかを肌で理解しているからだ。ゆえに、文脈に馴染みがない音楽というのはえてして理解しにくいものであるし、しばしば「分からない、ゆえに意味がない」という単純な拒絶へと結びついてしまう(だからこそ、「分からないのは当然なのだ」と開き直ることが、ジャンルの壁を越えるための知恵ともなり得るわけだ)。

 

 そうした単純な拒絶の不幸を背負っているジャンルといえば、やはり現代音楽、つまり主に第二次大戦以降に生まれたクラシックの伝統を引き継ぐ音楽が、まず筆頭に挙げられるに違いない。もちろん、現代の音楽はクラシックと違い時の洗礼を経ておらず、それゆえ、これから淘汰されてしまうであろう低質な作品を聴かされてしまうことも多い。何事もその9割はクズであると看破したのは誰だったか。だが、そのクズの山の中にも、より広く愛されるべき宝が数多く存在するのも事実。20世紀後半のクラシック界(=現代音楽界)が生んだ価値の総量は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」や、ラヴェルの「ボレロ」を生んだ前半のそれに決して引けを取るものではない。問題は、その背景にある文脈をわかりやすい言葉で聴衆へと伝える努力が、十分になされていないということになるだろう。

 
 
 
 

 今回は、その20世紀後半の音楽から、アメリカ実験音楽を代表する作曲家の一人:モートン・フェルドマンをご紹介しようかと思う1926年ニューヨーク市に生まれ、同じくアメリカ実験音楽の泰斗であるジョン・ケージ、あるいはジャクソン・ポロックに代表されるニューヨーク・スクールの画家との交流に触発され、最弱音での幽かな響きを延々と繋げていく、極めて美しい作品を作曲し続けてきた特異な作曲家。特に、その晩年の作品では、演奏時間が限界まで引き伸ばされ、最長の作品である「弦楽4重奏曲第2番」では、演奏時間は実に6時間以上にも及ぶ。だが、そうした作品においても、ワーグナーの楽劇のような劇的な効果は徹底的に排除され、暗闇で揺らめく蝋燭の炎を見つめるような、繊細を極めた音風景が延々と続くのみである。

 フェルドマンは1987年にバッファローにて没し、昨年が生誕80年、今年が没後20年に当たる。それゆえ昨年から今年にかけて、日本国内でフェルドマン作品の演奏を聴く機会は多い。上で触れた「弦楽4重奏曲第2番」もまた、昨年10月、20代の若手演奏家を中心とした演奏団体:アンサンブル・ボワによって、実に7時間半もの時間をかけ日本初演されている。

 

 もちろん、フェルドマンがかくも長時間に及ぶ作品を作曲するのは、奇を衒っているからでも、聴衆に対して嫌がらせをしているからでもない。実験音楽のテーマの一つに、聴衆を積極的に退屈させるというものがあるのは確かだが、去年、「弦楽4重奏第2番」の日本初演に立会い、今年もまた静岡で「トリオ」の日本初演(演奏時間110分)を聴き、さらには今もフェルドマンのCDを聴きつつこの文章を書いている経験が、彼が目指したものは決して「退屈」ではないのだと教えてくれた。

 通常のクラシック音楽においては、部分は常に作品の全体の中での役割を意識されつつ鑑賞される。形式についての意識、などと言わずとも、「これからどうなるのか」、「盛り上がるのか」、「沈静化していくのか」、そうしたことを聴衆は常に意識しつつ音楽を聴く。それは山の頂を目指しながら、一歩一歩と足を進めていくのに似ている。しかしながら、フェルドマンの作品ではそうではない。終始幽かな響きで奏される彼の室内楽作品を聴いていると、演奏が始まって20分も過ぎたあたりから、自分が作品のどの部分を聴いているのか、などということは正直どうでも良くなってくる。あまりに全体像が大きいために、それを把握することがかえって困難となるという、あたかも「ナスカの地上絵」を地上で観るような感覚が、音楽鑑賞の場へと導入されるのである。

 

 あるいはこう喩えても良い。フェルドマンの作品を聴くということは、見知らぬ国を地図もガイドブックも持たずに散策するようなものである。目的がないからこそ、出会うものすべてを新鮮なものとして享受することが出来る。フェルドマンの作品を聴くということは、見知らぬ国で人と出会うように音が生まれる瞬間瞬間に出会い、それを愛でていくことに他ならない。もちろん、ガイドブックのない散策が必ずしも楽しいものとはならないように、フェルドマンの作品を集中して聴くということは、その作品の美しさとは裏腹に非常な苦行ともなりうる。だが、集中して聴くというスタンスのみが、正しい聴取の作法であるわけではない。BGM的に音楽を流しながら、ふと出会う響きに心を捉えられる、そうした聴き方があっても良いはずだ。それも、フェルドマンの作品が教えてくれることの一つである。

 フェルドマンの作品は、アメリカの実験音楽を主力としたmode、hat hutといったレーベルから幾つかリリースされており、大型CD店の通販などを利用すれば簡単に手に入れることが出来る。最長の弦楽4重奏曲である「弦楽4重奏曲第2番」すら、現在2種類の音盤が発売されているというのも、フェルドマンが呈示した美学に共感する聴衆が、没後20年にして少しずつではあるが増えてきたことの証明である。筆者がフェルドマン初心者の方にお勧めするのは、ヴァイオリンとピアノのための作品を集めた2枚組(mode 82/83)。初期作品から晩年の作品まで網羅され、収録作の演奏時間にしても、通常の室内楽作品と変わらないものから、80分に及ぶものまでバラエティに富んでいる。そして何より、余分な装飾のないまっすぐなヴァイオリンの音と静的なピアノの和音が醸し出す音風景が極めて美しい。

 
石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
1969年、東京都出身。
東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。御嶽神社の宮司を務める。
 


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