【趣の庭】 音楽日記・欅の木漏れ日
2007.06.25
Vol.2古楽演奏と少年モーツアルトの素顔と
 
石塚 潤一
 

  ある雑誌に古楽についての記事を書くことになり、先月末からこの分野のCDばかりを聴き続けている。

 
写真
 
チェンバロ
 

 クラシック音楽に特に興味をお持ちでない方には古楽とは馴染みのない言葉だろうから、少々説明が必要かも知れない。例えば、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」だが、300年近く前に作曲されたこの作品は、クラシックのピアニストなら避けて通ることが出来ない聖典の如き名曲とされており、今この瞬間も世界のどこかのピアノで弾かれているに違いない。しかしながら、バッハがその生涯にピアノを弾いたことは数えるほどしかなく、ピアノのための作品は一曲すら遺していない。通常ピアノで弾かれているバッハの作品は、実際にはチェンバロやクラヴィコードといった当時の楽器を想定して書かれたものなのだ。これらの楽器の音色はピアノとは異なったものであるし、同じように鍵盤があるにも関わらず演奏の作法は驚くほどに違う。古楽とは、こうした(主に中世からバロック期の)作品を作曲当時の楽器と演奏方法によって再現する、クラシック演奏の流儀のことなのである。

 もちろんこのことは、ピアノで弾かれたバッハは全て贋物だ、ということを意味するわけではない。ピアノで弾かれようがチェンバロで弾かれようが、良い演奏もあれば、そうでない演奏もある。ただそれだけのこと。それでも、上で説明したような古楽的なアプローチは、20世紀クラシック音楽演奏史上の一大エポックとなり、今日ますます盛んである。その理由はどこにあるのだろうか?

  演奏者は楽譜を読み楽器を自在に操ることで音楽を奏でる。ゆえに、楽器とはつまるところ道具でしかない。だが、道具とは単に使われるだけでなく、使用者へと逆に影響するものでもある。楽器の持つ性能を隅々まで引き出すことを心がける奏者なら、楽器が変われば当然のごとく、その特性に対応すべく表現のあり方を調整するように。現代の楽器を使い現代の奏法で過去の音楽を演奏すること。もちろん、その中で魅惑的な表現を実現することも可能だろう。が、同時にその表現は現代の楽器の特性に沿うことを柔らかに強いられていく。

 このこと故に、現代のものとは全く異なった過去の楽器・奏法によって楽曲に対峙する古楽演奏の流儀が、時に奏者をモダニズムの呪縛から解き放ち、忘れられていた/だが瑞々しい表現の可能性を示唆するのだ。

 こうした古楽演奏に興味を持たれた向きに、筆者はレイチェル・ポッジャーとゲイリー・クーパーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集(蘭Channel Classics)をお勧めすることにしている。バロック・ ヴァイオリンとフォルテピアノによる演奏は、現代の楽器にはない独自の陰影に彩られており、特に少年時代の簡素な作品がこれほど魅力的に聴こえるのは、この陰影ならではのことと言えるだろう。もちろん、演奏も素晴らしい。

 
石塚潤一 (いしづか・じゅんいち)
1969年、東京都出身。
東京都立大学大学院理学研究科修士課程修了。
2002年度「柴田南雄音楽評論賞」奨励賞を受賞。御嶽神社の宮司を務める。
 


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