【趣の庭】釣り三昧
2010.8.23

釣り三昧 Vol.61
Joy of Fishing


歯抜けはマヌケな話


樋口 正博

写真

■タコの介は診察椅子に横になって
とってもコワイ思いをした

 「あーあー。こりゃひどい。なんで早く来なかったの? 痛くなかった?」
 タコの介は何十年ぶりに診察椅子に仰向けに寝て、間抜けに大口をあんぐりと開けて、
 「うんぐ、うんぐ、ぐぐぐ……」と、わけの分からないことを唸っている。
 「先生、口を開けながら会話なんかできないよ。それに、いま抜こうと麻酔の注射をしているときでしょ。タコの介、とってもコワーイ最中なんですから」
 というようなことを、「うんぐ、うんぐ」と必死になって表現しているのである。
 タコの介は飯田橋にある「北村歯科医院」にいる。この2週間続いた屈辱を晴らすために…。

■終電車に遅れまいと
走ってコケたタコの介


 話を2週間前に遡らせていただく。朝起きて洗面台の鏡を見たタコの介は、愕然として持っていた歯ブラシを取り落としそうになった。
 前歯のひとつが垂れ下がっている。ブザマで間抜けである。触ると、ぐらぐらと前後に動く。もう少しで抜けそうである。
 「いったい、どうしたっていうんだッ! ええ?」
 と自分を問い詰めた。そのとき、「あっ」とある重要な事実を思いだしたのだった。
 あれは1年半前の寒い冬だった。タコの介はいつものように居酒屋「弥助」で飲んで、終電車ぎりぎりという時間だった。西武新宿駅の改札口にたどりついたとき、終電車が発車するチャイムが鳴りだした。
 タコの介は反射的に走り出した。そして、足をもつらせて案の定コケたのだ。しかも、水泳のスタートのように両手を前に伸ばしてザッパーンと。
 床からの衝撃を受け止めたのは、タコの介の頑丈な前歯だった。
 「大丈夫ですか?」
 と若い女性が手を差し出してくれたのを覚えている。
 「大丈夫です。ありがとう、ありがとう」
 そのとき、確かに大丈夫だったのだ。歯で口のなかを切ったりもしなかった。

■歯の浮くような話

 ところが、タコの介の前歯は大丈夫ではなかった。1年と半年をかけてじわじわとは歯ぐきを浸食して、とうとうグラグラのガタガタになってしまった。
 前歯はいったん「抜けるからね」を宣言すると、急速にグラグラが増してきた。
 そして、タコの介は無口で笑わなくなったのだ。みっともなくて、だれにも前歯を見せられない。もともと無口でクールなタコの介は、ますます沈黙して周囲を暗くさせていった。
 「タコの介さんて、そのクールなところがステキ」
 タコの介は会社の経理の若い女性に、歯の浮くようなことをよく言われるのだが、本当に歯が浮いてしまったのだ。

■その歯科医は
とびきりの釣り大好き人間だった

 そんな顛末を、タコの介は自虐的に「つり丸」の連載コラム「タコの介の浮きっぱなし」に書いた。文末で「どうか読者の皆様、四谷近辺で評判のいい歯医者をご存知でしたら教えてください」と書いた。
 すると、すぐに読者から電話があった。
 「飯田橋に、ぜったいオススメの歯科医院があります。ちゃんと説明をしてくれるし、簡単に歯を抜いたり、よけいな治療はしません。ぜひ行ってください」
 という。タコの介はすがる思いでその「北村歯科医院」に電話をした。そして、本日(8月19日)行ってきたのだ。歯医者など怖くて行きたくはないのだけれど…。
 北村先生はタコの介の前歯を見るや「どうしたらそういう状態になるの?」と好奇心旺盛に聞いたのだ。で、タコの介はことの顛末を話した。ついでに、なぜ「北村歯科医院」に来たかも話した。
 「そうですか。紹介したのはだれかな。あいつかな」
 と、その名乗らなかった読者の名前を次々とあげていく。そして言ったのだ。
 「みんな釣り仲間ですよ。よく行くんです」
 という。そうか、読者が釣り師なのは当たり前としても、その紹介先の先生まで釣り師だとは予想していなかった。
 しばらく、釣り談議が続いた。話好きな先生で、タコの介の口をいじりながら、釣りの話が止まらない。十分にあり得る話だ。
 「とりあえず、この前歯はダメだから抜くね。そして、仮の前歯を接着で留めておくよ。歯抜けのままではみっともないからね。わっはははは」
 「うぐぐ、うぐうぐ……」(紹介者は「簡単に歯を抜くような先生じゃありません」って言ったのに)
 「歯は抜かないにこしたことないけど、これはもう助からない歯ですからね。で、いま相模湾ではカツオ、マグロが好調でしょう。今度自分のヨットで釣りに行くんですよ。楽しみでね」
 「うぐぐ、うぐうぐ、うぐぐのぐ……」
 こんな会話にならない会話が30分続いたあと、タコの介は無事に前歯をセットして急場のしのいだのだ。ああ、これで大口開けて笑える。

写真
「北村歯科医院」はJR飯田橋駅近くのビルの4階にある。

樋口 正博 (ひぐち・まさひろ)
1952年、長野県生まれ。
沖釣り専門誌「つり丸」編集長。最近は釣りよりも魚料理に興味が傾いてしまった。毎月一回、嵐山光三郎さんと連載「釣って開いて」の取材に出かけるのが、おもな釣り取材となっている。通称「タコの介」(嵐山光三郎命名)。
 
 
 


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